早いものでCyberFusionが2周年を迎える。 他のスタッフはみんなCyberFusionをはじめる前も、今も同じ仕事をしている。 でも私はCyebrfusionに参加したことがきっかけで今の仕事についた。 いま、私は「ショパン」「教育音楽」などでライターの仕事をしている。 もちろん駆け出しの新人ではあるが、この1年は原稿を書いて生活してきた。 音楽ライターになる前は、学校で音楽の先生をしていた。 ライターになったきっかけは、何を隠そうパソコン通信、そしてCyberFusionで行った則竹裕之インタビューである。 通信にハマった私 私がはじめたのはパソコン通信のニフティーサーブ。 cyberfusionのスタッフの多くとはニフティーサーブで知り合った。 そのころのジャズフォーラムにはT-スクェアとカシオペアの会議室というのがあった。 私のT-スクェアファン歴は、そのころで8年ほどだった。 やはりフュージョンファンというのはなかなか身の回りにいないものだ。 T-スクェアのファンも、友達にはほとんどいなかった。 しかしその会議室には仲間がたくさんいた。 私はフォーラムに発言をはじめた。 ここでもさんざん書いてきたが、私はT-スクェアのドラマーの則竹さんの大ファンで、超ミーハーである。(詳しくは過去の花園日記を参照) 濃い則竹ファンになってから、ファン歴はそのときで約5年だった。 則竹さんがライブで登場し、叩き始める音を聴いたら。 嬉しさのあまり頭はぐるぐる。胸はばくばく。 その度に貧血でぶっ倒れそうになる。(マジ。) などという感じで、私は来る日も来る日も則竹さんへの思いをフォーラムに書き続けた。 則竹ファンとして私の名前は定着していった。 そのうちに、あることを思い出した。 私は書くことがものすごく好きだったのだ。 ここ数年、ピアノの演奏やら、先生の仕事に熱中するあまり、忘れていた。 「話がわかる」人に向けて、好きなミュージシャンの話をする。 まさに水を得た魚のような状態だと、いろいろな人に言われた。 毎日原稿用紙30枚程度はパソコンに向かって書いていた。 則竹さんに取材!? フォーラムに入って半年たったある日、1通のメールが届いた。 MARC H.さんの許可が出たので、ここにそのメールを引用してみようと思う。 美芽さん、こんにちは。 FJAZZのMARC H.です。 突然のメールどうもです。 突然なんでメールさせていただいたかというと、 Cyber Fusionの件なのですが、 則竹氏の突撃インタビューをやってみようという気はないでしょうか? 最近Cyber Fusionの方でインタビューコーナーというのを作りまして 第一弾としては既にステップス・アヘッドのドラマーだった ピーター・アースキンのインタビューを載せています。 (アースキンはガッドの後にステップスに入ったドラマーで ベイルートのスタジオ盤は彼が叩いています。) 則竹氏もアースキンと並んでのるなら文句はないんじゃないかと思いますが、 いかがでしょうか?(原文そのまま) ホームページを雑誌に見立てて、取材をやってみようというわけだ。 可能性はありそうだった。 この時点でMARC H.さんと私はフォーラムで若干やりとりがあった程度。 どんな人なのかも全然知らなかった。 しかし私は飛びついた。 則竹さんに会って話ができるかもしれない!! 可能性があるなら、どんなことだってやってみようと思った。 MARC H.さんのプランはこうだった。 個人では相手にしてもらえないので、オンラインマガジンだと名乗る。 取材と称して、事務所にスケジュールをとってもらう。 いくらなんでもそんなの、無理だよな〜。 しかし、ダメでもともとだ。 事務所に電話してマネージャーと交渉してみたところ、 半月待たされたが、なんとOKが出た。 私は喜んだが、すぐに青くなった。 則竹さんに会える、とミーハーしている場合ではない。 せっかく取材させてもらえるのなら、悔いが残らないようにしたい! 仕事モードだ!!! 当日までは半月あった。 毎日毎日何を質問したらいいのか調べ、考える。 DATのレコーダーやマイクを買い込み、わたしはひたすら準備を重ねた。 せっかく則竹さんが信用してスケジュールをとってくれたのに。 何か失敗があったら・・・。 取材の1週間ぐらい前から、緊張が体にも表れた。 よく眠れない。 心配のあまり胃が痛くなる。 そして睡眠不足でフラフラのまま、当日の朝が来た。 緊張の取材当日 渋谷にあるT-スクェアの事務所に着き、マネージャーに挨拶する。 隣の部屋のドアが開くと。 5年間、ドキドキしながら見つめてきた則竹さん本人が、 ジャズライフをめくりながら座っていた。 「こちらは、インターネットのホームページの取材で・・・」 説明するマネージャー。 そして私を、則竹さんのまっすぐな瞳が見つめてくる。 間近で見ると、思っていた以上にお肌はすべすべ。 ぜい肉はまったくなくて、「きゃしゃ」と思ってしまうくらい。 もちろん、半袖短パン姿のときに注意して見てみると 筋肉はバッチリついていて、弱々しい印象はないんだけど。 ふと、カシオペアの熊谷さんが 「則竹さんは体重が増えなくて苦労している」 と言っていたことを思い出した。 そして、柔らかく落ち着いたトーンの声。 時々ドラムパターンを無意識に手や指で打っている。 ステージで見ている印象が、間近だとこうなるんだ・・・。 ほとんどステージで受けた印象そのままの人だった。 だけど、目の前にその人がいるというリアリティに、圧倒される。 はっ。 見とれている場合じゃなかった。 私は、取材をするために、ここへ来たのだ。 テープを回し、ホームページの説明をしてから、私は質問に入った。 私はファンをずいぶん長い間やっていたし、 パソコン通信でもずいぶん情報を集めていた。だから、 「高校時代のバンドでやった曲目」など細かいネタも出てきて、 「よくそんなことまで知ってますね」と何度も驚かれた。 私のような小娘が相手だというのに。 則竹さんはとても優しい口調で丁寧に、たくさんしゃべってくれた。 思っていた以上に本当にいい人で、驚いた。 あっという間に1時間半たってしまい、取材は終了。 運よく当日事務所のスタジオにあったドラムセットで写真撮影をする。 このときカメラマンをつとめたひさえによると、 「撮りがいがあったわ〜。 こっちを向いて笑いかけてもらえるのって、ひとりじめ気分。 役得ね」 とのことだった。 しかしふたりとも完全仕事モードだった。 則竹さんとツーショットを撮ろうとは夢にも考えなかった。 帰り際、則竹さんは出口まで見送ってくれた。 そのとき。 ステージでいつも見ていた丁寧なおじぎを、私たちにもしてくれたのだ。 胸がいっぱいになり、涙があふれそうになった。 事務所を出て渋谷の街を歩く私は、虚脱状態。 ひさえに連れられるようにして駅までたどりついた。 ひとつ、夢がかなったのだ。 ひさえは 「美芽ちゃん、すっきりした凄くいい顔をしてるよ」 と言ってくれた。 1996年10月1日のことだった。 ライターになるしかない! ノーギャラだったけれど、このライター初仕事が私の人生を大きく変えた。 当時、私は学校で先生をしていた。 1浪して、やっとの思いで教員採用試験に合格したばかり。 なりたくてなったはずの学校の先生だった。 でも、私がほんとうにやりたかったことは、音楽について文章を書くこと。 ライターだったのだ。 私は学校を辞めた。 ライターになる決心をした。 そしてライター生活も1年が過ぎ、やっと仕事も軌道にのってきた。 「教育音楽」の取材では、音楽の授業を見に行くことが多い。 ついこの前まで、ああやって教壇に立っていたのに。 そう思うと不思議な気持ちになる。 もし、則竹さんがあのとき取材をOKしてくれなかったら。 もし、cyberfusionのウェブマスター、MARC H.さんがメールを送ってこなかったら。 今も私は、同じように教壇に立っていただろう。 今も則竹さんは大好きなので、ライブはできる限り行っている。 さすがに免疫ができたのか、 以前のように姿を見ただけで貧血気味になることはないけれど。 彼の演奏を聴くと、ときどきこの日のことを思い出す。 最近一番うれしかったのは、 ジャズライフからT-スクェアのライヴレポートの仕事をもらったこと。 T-スクェアの記事をジャズライフで書くというのはずっと目標だった。 またひとつ夢がかなったという気持ち。 いつの日か、T-スクェアのこと、 そして則竹さんのことを本にできたらいいなと思っている。 その瞬間を夢見る。 それが私の原動力のひとつなのかもしれない。 このとき私が則竹さんに取材したものは、今でも見られます。 こちらまで。 |