「Dreams Can Go」発売記念 則竹裕之インタビュー
 9月22日、則竹裕之ソロアルバム「Dreams Can Go」がリリースされました。
このアルバムができるまでのプロセスについて、セッションワークで多忙な合間を縫って則竹さんに取材することができました。
 プロデューサーの古川初穂さんとの出会い、自宅スタジオでのドラム録りから最近のドラムセットまで、CyberFusionならではのフルボリューム、リアルオーディオのメッセージ付きでお届けします。
則竹裕之メッセージ
28800bpsISDN

構想14年!!

−−実はスクェア入団当時の14年前から構想があったということですが。

 とにかくアマチュアの頃から、今回のプロデューサーの古川初穂さんが好きだったんです。彼の方が僕より1年か2年先に上京されていて、「おなじプロミュージシャンとしてお話ができるかもしれない」という状況でした。僕が東京に来てから、初穂さんが知り合いの知り合いだったので紹介してもらって、ご飯を一緒に食べたんですね。
 
 お互い違うフィールドでやっているので、一緒にやれるとすれば・・・。むこうは僕がどんなドラムを叩くか、その時点ではわかっていないので、自分が声をかける、一緒にやりたいっていうことを提示する以外に方法はないわけです。

−−古川さんと会ったのはそのときがはじめてだったんですか。

ええ、緊張しましたね。覚えてますよ。そのときに「いつか自分の活動をするときに一緒にやってくれませんか」と言ったわけですね。「いつか自分のアルバムが作れるときがきたら」といういい方をしたと思うんですけど。
 
もちろん、14年間ずっと思い続けていたわけではないんです。ただ、年賀状のやりとりは滞ることなく続けていたと思います。僕は年賀状を1月1日に着くように出すんですけれど、彼はそれを見て返事を書くので(ソロアルバムが)「いつなんだ」「いつなんだ」ということが書いてあって。
 
 そんなやりとりをしていて、一回だけライヴはご一緒させていただいたことがあったんですよ。自分のセッションで、もう10年近く前かな。でもそのときは自分の曲も何もなくて、古川さんの曲とカバーをやりました。神戸とか、ちょっとした旅(ツアー)にも行ったんですよ。
 
 それと、池田達也くんっていうベーシストに呼ばれてセッションに行ったらキーボーディストが古川さんだったことがあって、「あっ!」とびっくりしたことがあったんです。

 テレビ東京で放映されていた「音楽は世界だ!」のハウスバンド「Kore-Chanz」でアルバムを出すときに、「エジプトの財宝」が初の則竹作品としてCDになっています。そして、T-スクェアでも「No More Tears」がアルバムを皮切りに、「B.C.A.D」ではアルバム1曲目に印象的なナンバー「勇者」が収録されるなど、徐々にコンポーザーとしての実績を積んできたのでした。それらにはドラマーの曲という固定観念を一掃するような、メロディアスな曲も少なくありません。

 ここ数年はセッションを特に意欲的に行っており、T-スクェアのツアーやレコーディング以外の時期も、各地のライブハウスへの出演でスケジュールはびっしり埋まっています。自分のアルバムの作業をする時間など、ないのでは? そう見えるほどあちこちのセッションに出ていた則竹さんでしたが、ついに自分自身のアルバムをレコーディングする時期がやってきました。アルバムコンセプトは「"夢"="創造"の旅」。

−−聴いてみてものすごくコンセプトが明確で、曲もそういう流れで作られているのかなと思ったんです。でも、曲は何年がかりで作ることもある、とおっしゃっていますよね。ずいぶん前から、ソロアルバムのコンセプトは頭にあったんですか。

  うん。・・・ありましたね、今思うと。どうなんでしょう・・・音楽って、けっこう現実逃避な部分があるじゃないですか。目をつぶって聴いていると、その土地のその情景に入っていけるみたいな・・・。そういう気持ちよさは原点かもしれないですね。
 
 音楽のムードを大事にしたいし、そのムードではなるべく現実に近いところじゃないところに行ってみたいという願望があるんです。だから自然にこういうコンセプトのものができたんですね。

−−曲をかくときも夢とか旅とか、そういったものがテーマになってきた、というのはあったんでしょうか。

 自分では意識しないんですけどね。どこかあるかもしれないです。別にこれはどこどこのイメージで、というのはないんです。それが郷愁を誘うようなものかどうかはわからないし、時代的にすごく今から遠いところなのかもしれない。とりあえずそういう感覚が好きなんですね。

−−この中で一番古い曲というのはいつごろできたんですか。

 相当古い曲がありますね。1曲目はT-スクェアのアルバムの選考会に出して落ちたんですけど、そのずいぶん前からできていた曲です。けっこう古いんですけど、これはビデオみたいなものには出さないで温存しておきました(笑)。実はアレンジも初期からいまの完成形に近いものができていたんですよ。5〜6年、「勇者」よりは前になるかな。「番犬"Larry!"」も、犬を飼い始めた頃ですからね。4〜5年にはなるかな。
 
 でも、なんといっても一番古いのは「Mia Cadol」でしょうね(笑)。これは、古川さんが「羅麗若」(ラレーニア)っていうグループでデビューされて、ファーストアルバムが出て、2枚目のアルバムの話があったんです。そのために彼が作ったけれど、その2枚目というのが現実化されなかったので、幻になってしまって。だから少なくとも15年はたっています。
 
 「Port Town」は阪神大震災のときに書き始めて、ずっと自分の水面下にいた曲。「Clione」も古いですよね。最近このアルバムを出すと決めて、「よし、新曲を作ろう」というふうにしてかきはじめた曲はひとつもないです。全部自分の中にどろどろになっていた曲なんですよ。

 ほぼ1年前、1998年の10月に、私は「ライブハウスガイド」の取材で則竹さんに会っています。そのときはDATを見せてくれて、これがソロアルバムのデモテープで7曲入っていると話してくれました。2ヶ月ぐらいかけて、ドラムの音は実際に叩いて作ったと言っていたと思います。
 昨年のT-スクェアの夏のジャズフェスなどライブ活動が一段落したのが8月。それまでに練り上げてきたものを、9月までにデモテープの形にまとめたことになります。

−−去年の時点で、全部曲はできていたんですよね?

 そうですね、そのあとアレンジはいじりましたけどね。

−−デモテープには則竹さんの曲だけが入っていたんですか。

 そうです。自分の中で落とした曲っていうのが2曲ぐらいあって、逆にいうと自分の中にあったものをほとんど出しちゃったんです。だから、もうストックは2曲しかありません(笑)。

−−去年の時点からアレンジに手をいれたというのは、自分で考えたものと、初穂さんのアドバイスを参考にしたものがあると思うんですが。そのへんはどうなんでしょう。

 アレンジのやりとりを始めたのは、4月の半ばでしたね。レコーディングの2週間前です。ちょうど古川さんもジャズの旅で、東北方面をまわっている時期でした。「曲、どうなりましたか」って電話すると「いま、飲んでてさ」「そうですよね、またかけなおします」みたいなこともあって(笑)。
 
でも、いい仕事をしてくださったわけですよ。相当苦しまれたみたいですね。これだけ長い間約束してきてやってきたもので、いざ「やろう」といったときに彼もそれなりの責任感を感じていたと思うんです。ガラッと変わってしまったのはM3の「Train In the Rain」、それとM4の「Clione」はまったく新しいパートを古川さんがつけてくれました。枚挙にいとまがないですけど(笑)、「番犬"Larry!」なんかは途中のローズのソロパート、あれは僕はまったく考えていなかったし。

 「Port Town」については、ABCのBの後半が「これはちょっと・・・何かに似ているんだよな」、って古川さんが気にされていたんです。「すごく似ているから、避けた方がいいと思うんだ。よし、じゃあこれは俺も作るからお前も作れ」。ということになって、似ている部分のBの後半の数小節間をお互い作ることになった。

 僕は作り直そうと思ったんだけど、自分の曲だけどもうできちゃっているものだから、そこだけ入れ替えるというのができなくて。「できませんでした」って言ったら「ああ、じゃあ今から譜面もって家に行くわ」・・・それで、できあがったのがあの曲なんですね。
 (古川さんは)あんなに難しいというか、頭のいい曲をつくる人なので「人の曲をいじるのは、すぐできちゃうんだろうな」と思っていたんですよ。でも、かなり苦しむらしいですね。

 どっちにしてもお互いのスケジュールから見ていくと、ゆっくりものをつくるのはどうやら不可能だっていうことは確かで。そうしているうちにどんどん先送りになるし、ファンの人から(「いつ出るんですか」と)言われるし(笑)。僕はそんなに早く早くっていうのはなかったし、いいものを作りたかった。でも、僕たちもおしりに火がつかないとなかなか頑張れない種族なんで、「じゃあ、もう忙しいけどやっちゃおう」ってスケジュール組んだんですよ。(マネージャーの松井さんに向かって)大変だったよね。(松井さんうなずく。)

 T-スクェアのスケジュールは、これまでだいたい毎年11〜12月に作曲やプリプロ、1〜3月にアルバムの制作になっています。今年のレコーディングは3月に終了して、全国ツアーのリハーサルは5月の中旬からスタート、ツアーに出るのは5月の下旬から。アルバム制作とツアーの1ヶ月あまりの隙間を縫ってソロアルバムの作業は行われました。

初の自宅レコーディングに挑戦

−−4月の後半にアレンジを煮詰めて、5月に録ったわけですよね。

 そうです。5月1日から録りました。1・2・3・4・6・8・9曲目は、家で先にドラムを録ったんですよ。10は1とおなじということで。逆にいうと「Lilac Time」と「Mia Cadol」以外は、全部ドラムトラックを先に自宅スタジオで録りました。
 5月1日から自宅で録ることが決まって、3日前から大迫さんというエンジニアの方に家に来てもらってたんです。僕もはじめてご一緒させてもらったんですけど、まだ20代で、すごくいい方なんです。

−−自宅スタジオで、初のアルバムレコーディングだったわけですね。

 大迫さんが家に来てくれて、家にある機材をチェックして、この家にあるものでどれだけのものができるか計算して、どうしても足りないものはヴィレッジレコードとか大迫さんの私物の機材を持ってきてもらったんです。そして4月の最後の日に録りのスタンバイができて「がんばってください」ってエンジニアの方は帰っていかれた。そして翌日から自分でテープをまわして録りました。

 でも、大迫さんは結局心配になったらしくて、しょっちゅう電話がかかってくるんですよ。「どうですか、テープは絡まっていませんか」「大丈夫、なんとかやってますよ」「でも心配だから」って2日か3日に1回のペースで来てくれました。

 来てくれたときにそこまでできているドラムトラックを聴かせてたらね、彼が結構しぶい顔で「はあ〜・・・」っていっている。「どうしたんですか」ってきいたら「全部赤がついてます」。レベルメーターのレベルが赤ぎりぎりで抑えるのがプロなんです。現実的にはその赤を越えてもよしとする場合が多いんですけど。
 
 音決めをしたときにはエンジニアの方がいたわけですけど、本番になると音量が少し上がるんですね。そこを計算にいれてなかったんですよ。全部真っ赤でね。「でも聴いて大丈夫だからいいですよ」みたいなことで、そのテイクをOKにしたりしました。
 
 他にもけっこういろいろあったんですよ。スネアもマイクを上と下から録るんですが、下を逆相にして上を正相にして録る、位相の問題があるんです。でもスネアの深さが変わるとマイクの距離が変わるじゃないですか。そうするとそのたびにマイクの位置とか位相をきれいに録るために調整しなければならないんです。
 
 僕は自分で曲ごとにスネアを交換して「こんなもんかな」ってやっているうちに、位相をいじることを僕が忘れていて、そのまま録っちゃった曲があったりして、ふたを空けるといろいろあるんです。その度に大迫さんが来て
「あっちゃ〜。・・・でも、もう1回できないですよね・・・」
「もう、これでいいじゃないですか」
とかね。楽しかったですよ。

−−ドラムパートは何日間ぐらいかけて録音したんでしょうか。

 8日ぐらいですね。基本的には1日に1曲録っていったんです。曲によってはテイク40ぐらいやったのもあります。

−−えっ。どの曲ですか。

2曲目「Secret Market」とかね。基本がややこしい上に、ドラムソロとか結構でてくるんですよね。「あと一歩」っていうところで間違えちゃったりする。「あっ、・・・・もう1回」っていう。

 変拍子に聞こえる4分の4拍子−−「Secret Market」は、そんな不思議なリズムの曲。実は、7/8拍子と9/8拍子が組み合わせられて、2小節合わせると4拍子にとることができるのです。教則ビデオ「則竹裕之徹底解析」(アトスコーポレーション)では、このリズムをどうやって考え出したかという種明かしがされています。

−−逆に、午前中に終わってしまうとか、スムーズにできたものはあるんですか。

 ありますよ、M8・9あたりですね。「終わった!」っていってたら次の日にエンジニアの人が来たら「スネア逆相っぽいな」・・。まあ、いいんですけどね(笑)。

−−ドラムの録音って、ほんとうに大変なんですね.

 一番録るのは難しいですね。今回はA−DATという媒体を使ったんですよ。袋いっぱいになるぐらいのマスターテープができあがって、それをヴィレッジスタジオに持っていって、3348っていう、僕らがT-スクェアのレコーディングで使うような大きなデジタルレコーダーに流し込んだんですね。その流し込んだオケに、プレイヤーの人にダビングしてもらったんです。

 古川さんのM5とM7に関しては、「せーの」でやったんですよ。すごくね、気持ちよかったですね。みんなでやる楽しさというのを再確認しました。まあ、なぜ自宅でドラムトラックを録ったかというと、別に僕の曲って録音ということに関しては何のワザも使っていないんです。ただテープをまわして録る、それだけの作業をするならば、自宅じゃない方がいい。
 
 でも、なぜ家でやりたかったというと、最初の原曲のイメージをすごく大切に1回やってみたかったんです。ドラムのフレージングというのは細かいものがあるじゃないですか。そういうものを本当に曲にあった、もとのイメージに近い形で録るために、たとえば「Time to Landing」を録るじゃないですか。僕以外のオケはコンピューターに打ち込みで入っているわけです。
 
 そのオケっていうのはほぼ完璧にアレンジされたもので、その中で自分のドラムがどう絡んでいるかということを非常に気にしながらやったわけですね。録ってみて「ここのフィルとこのシーケンスのどういうフレーズの絡みが、ちょっと悪いな」っていうと、それを書き直してまたやって。そうすると「ノリが良くない」。もう1回やり直す。というようなことをやったんですけどね。
 
松井 東京のスタジオでやったりすると、秒刻みだったりしますよね。そういうのも気になるんじゃないですか。たとえば僕らだったら「1時間過ぎたら2万円だ」みたいな。いろんな押される力っていうのはありますよね。

 それはありますね。まあ、今回はすごくリラックスしてできました。ただ、一番つらいのはね、いい演奏をした、いいテイクが録れたと思っても誰も「YEAH!」って言ってくれないこと。

−−お父様とかは、聴いたりなさらなかったんですか。

 たまに。「どうかな?」って見に来るんだけど「わからんなあ、まわりが機械だと」(関西弁の口調で)。それとせっかく家で録れるクオリティでスタジオを作ったので、自分自身で試したいというのは大きかったですね。そんな感じですかね。

アコースティックなジャズ・古川初穂の「Lilac Time」

 「Lilac Time」を録っているときは、最高に幸せでしたね。ウッドベースの坂井紅介さんはお会いするのも初めてだし、サックスの小池修さんもレコーディングスタジオに一緒に入るのは初めてだったんです。でもね、みんなで「せーの」で録ったんですよ。

 「Mia Cadol」は古川さんに「これ、絶対アルバムにほしいんだ」って話はしていたし、古川さんも喜んでくれたんだけど、もう1曲古川さんに「なにか、なんでもいいから好きな曲をやりませんか」って、古川さんに1曲枠をプレゼントしたんです。「じゃあ、いい曲あるから、それを持っていくよ」っていってくれたけど、いつまでも聴かせてくれないんですよ。
 
 そしてレコーディング当日に古川さんに譜面をもらったんです。「こんな感じにしたいんだ」ってキース・ジャレットのCDを聴かせてくれたんだけど、「こんな感じ」っていうだけ。もちろんデモテープもない。それをパッ・・・とやったら、いきなりゴキゲンで。すごい気持ちよかったですね。
 
 これはね、すごいヘン(笑)。みんな1曲ぐらいずつミスしているんですよ。古川さんも「あ〜っ・・・」て言ってたし、僕もピアノソロのエンディングでずっこけてるし、どうやら紅介さんも「1拍ズレてベースソロをしているらしい」って古川さんが言っていたし。ミスがないのは小池さんぐらい。でも「全然いい、OK」みたいな。実は、僕がこのアルバムでテイク的に気に入っているのは、M5「Lilac Time」なんですよ。

−−素敵な曲ですね。

 優しい曲ですよね。

−−ライヴで、ぜひ聴きたいです。

 これはね、ウッドベースでやりたいんです。だから、なかなか難しいんですよ。他がエレクトリックだから・・・。

−−両方弾けるベーシストを呼んでいらっしゃるとか。

 うん。村上さんが弾けるかもしれないな。

−−M5は、テイクはどれぐらい重ねたんですか。

 テイク2です。テイク1は誰もミスしていないんだけど、古川さんが「おとなしすぎる。キレイキレイしすぎているから、みんなもっと無茶してくれ」っていって録ったのがテイク2で、結局みんな間違えたりしてるんだけど、こっちを採ろうということになったんですね。
 テイク1はね、また、いいんですよ。ECM系なんですけどね(笑)。フラットライド(シンバル)を使っていて、いい音で録れたんですけど、「静かすぎる。」って言われたので(笑)。結果としては並べてみて、「こっちのテイクでよかった」と思いましたけどね。

巨大タム「ゴングバス」と小さいバスドラム、欠けたシンバル

−−ドラムセットのことをうかがいたいんですけど、今のTAMAのセットではゴングバスっていう、バスドラぐらい大きなタムが導入されているんですよね。
 「Clione」の最後の、「ダンダンダン」っていうのはゴングバスなんですか。

 あれはそうですね。でも、ゴングバスはどの曲でも1回ぐらい叩いているんですよ。つい、視界に入るといってしまう(笑)。

 今年の7月、日比谷野外音楽堂で行われたT-スクェアの夏のイヴェント「野音であそぶ」では、正式メンバーとなった松本圭司さんがグランドピアノとサンプラーを使った個性的なパフォーマンスを展開。その後、ベース・ドラムが加わってピアノトリオで則竹さん作の「勇者」を演奏するという試みが行われました。
 
 このとき、ドラムセットの正面のバスドラムの他に、右に小さなバスドラムが使われていました。コンサート全体もストリングスカルテットを加えたアコースティックな編成が中心だったので、そこでも大小のバスドラムを使い分けていたようでした。

−−小さいバスドラムが登場していますが、大きいバスドラムとの使い分けなんですか。

 そう、使い分けるんですよ。たまたま野音のためにアコースティックなものをやるっていうことで。バスドラムってアンサンブルに与える影響が大きいんですよ。ドラムは大きくても小さくてもアコースティックなんですが(笑)、小さい方が生音のアンサンブルに向いているというか。曲によってそういうものも必要かなと、あそこに置いたんですけどね。

 来年是方さんのアルバムが出るので8月にレコーディングをしたんですけれど、あれは、8割方の曲でふたつのバスドラムを踏み分けていますね。1曲の中でバスドラムの音が2個きこえる曲が8割あるということです。ちょうどジャズライフ10月号に出ているセッティングですね。自分の中で、ちょっとしたクセになっているというか・・・楽しいんです。今日の斎藤ノブさんのセッションでもたぶん使います。使えるかわからないけど、とりあえず置いておこうかなと。

−−使い分けるのは、音色ということでしょうか。音量は関係あるんですか。

 小さいバスドラムのほうが音量も多少小さいです。でもタムも小さいのから大きいのまでありますしね。まあ、自然にそれにあったバランスにコントロールしているんでしょうね。問題ないです。

−−欠けているシンバルがありますけれど、あれは欠けているのがいいんですか。

 チャイナシンバルでしょう。あれはお気に入りの1枚だったんですけど、だんだんひびが入ってきて、あっと思っているうちに進行して、2ヶ所のひびが入っていって、そのひびがつながっちゃったんですよ。そしてある日、ベローンと取れちゃった。
 
 当然音は劣化しますよね。ボリュームは小さくなるし。でもそのかわりに、「ジーッ」っていう面白いディストーションがかかるようになったんです。割れ目で微妙にこすれ合う音がすごく気に入ってしまって、そのまま使っています。サスティンがいますごく短くて、「バァン!」「クシャッ!」って終わる感じ。
 
 昔スティーブ・ガッドは、わざとああいうふうに切ってサスティンを短くしたライドシンバルを使っていたし、割れたシンバルを使う人は多いですよ。

−−しばらく今のドラムセットを続けるんですか。

 それが、新しいセットが来たんですよ。すごい色で、ひとことで言えない色なんです。まず地色は黒に塗ってあって、金と銀とブルーとグリーンのきらきらしたメタリックなのが、「ぶわっ」とかかっていて、地色が見えるか見えないぐらいまでバラまいてあるんです。光の当て方ではすごい色に見えるんですよ。でも下品な感じではなくて、いいムードがあるんです。
 
 たぶん使っている人は誰もいないし、ワンオフのモデル、僕のセットしか世の中に存在しないモデルです。楽器ショーに出すサンプルか何かで作ったらしいんですけど、それをたまたま見せてもらって「どうですか」って言われて、「あっ! それでお願いします!!」ということになりました。本当は青いモデルにする予定だったんですけどね。

 ちなみに、この「すごい色」のドラムセットは本田雅人ライブツアーでデビューしたようです。
 則竹さんは今年、ドラムを数年使っていた「ソナー」から「TAMA」に変えています。「スタークラシック」というシリーズで、紫から黄色のグラデーションのあるタイプ。 ちなみに「ソナー」の前には「パール」が使われていて、毎年のツアーごとにモデルチェンジが行われていました。

−−では、シーズンごとに新しいセットが見られるんでしょうか。

 パールのときほどセットそのものは作り直すつもりはないんですけどね。どうでしょう。わからないな。早く叩きたいんですけど、なかなか時間がなくて。眺めていて「ああもう出かけないと」という感じで。まだ3日前に来たばかりなんですよ。

−−では、いまのスタークラシックシリーズは、しばらくみられなくなるんでしょうか。

 いや、そんなことはないです。サウンドの傾向が違うように作ってあるんです。詳しく知りたいですか?
 太鼓の口径に対しての深さってあるじゃないですか。いまの僕のセットは口径に対して、深さが比較的浅めなんですよ。そのかわり口径が僕にしては大きめの物が並んでいる。それを、こんどのセットは口径を小さめにして、深さを深くしたんです。なおかつシェルの中にレインフォースメントっていうのをつけてあるんですよ。

 ドラマガを見るとわかると思うんですけど、そのレインフォースメントというのは、土管を思いだせばいいんだけど、ふちが太く、真ん中より分厚くなっているでしょう。あれをレインフォースメントって言うんです。今使っているののはそれがないから、ただの筒なんですけど、それにレインフォースメントをつけることによって音が少し変わるんですね。そういう仕様にしているので、仕事によって分けるでしょうね。

「あの日は何をしたかよく覚えていない」

 このインタビューが行われた直前の9月14日、渋谷のクラブクアトロでヴィレッジレコードの主催する「ライブマスター」というイヴェントが行われています。ヴィレッジレコード所属の4つのバンド、T-スクェアのメンバーそれぞれのバンドが3つ、それとサックスの土岐英史バンドが出演するイヴェントでした。
 
 今回はソロアルバムの発売が近いということもあって則竹バンドはトリをつとめました。古川初穂さんをはじめとして、ギターの古川望、パーカッションの三沢またろう、ベースの村上聖などアルバム参加ミュージシャンが出演。さらにT-スクェアから宮崎隆睦(Sax、EWI)、松本圭司(key)が参加。総勢7名で、「Dreams Can Go」から、M1・2・3・4、そして「Mia Cadol」が演奏されました。

−−あのライヴでは、ドラムの音がとにかく大きくて迫力があって、ちょっとびっくりしました。

 あのときは思いっきり叩いていたからですよ。ぼくね、あのときどうかしていたんです(非常に楽しそうに笑う)。それまで斎藤ノブさんとの旅で、結構いろんなプレッシャーが来ていたんですね。

 9月に入ってから、則竹さんはパーカッションの斎藤ノブさんのセッションに参加して仙台、北海道、九州と全国をツアーしていました。管楽器はBIG HORNS BEEからサックスが金子隆博さん、トランペットが小林太さん。キーボードは角松敏生バンドでも演奏している小林信吾さん。ベースはSALT BANDなど各方面で活躍中の松原秀樹さん。そしてギターはカシオペアの野呂一生さんという、強者揃いのバンドです。
  このライブ、アンコールの1曲目はカシオペアの「ASAYAKE」。則竹さんがアマチュア時代に神保彰さんのプレイをコピーして何度となく演奏してきた曲です。その曲を、本家本元の野呂さんの背中を見ながら演奏したのでした。

 すごくいいツアーだったんですけど、野呂さんだとか先輩ミュージシャンに囲まれて、それなりに胃が痛む・・・「ああ、もっといい演奏をしないと」という感じで。そういうのって、ボディブローのように効いてくるんですよ。
 
 それで結局、手足口病っていうのになっちゃったんです。本当はどうってことない、じっとしているぶんには大丈夫な病気なんですけど、スティックを持つからブツブツが痛くて、抗生物質を飲むでしょう。そうするといい気持ちになるんです。そのうち痛み止めも併用するじゃないですか。そうすると、なんか「あ、ヤバい」って感覚があった。それでなくても、楽しみにしてくれる人は来るんだろうし、いい演奏をしないとっていうプレッシャーで、本番前に疲れと病気でおかしい感じでしたね。
 
 それでちょっと「ひっかけますか」という感じで、バーボンをロックで本番前に(笑)。そしたら力が入っちゃったんですよ。でもあれは自分でコントロールできなかったですから、「もういいや、今日はこのままいってしまえ」みたいな感じでした。本当はもうちょっと優しく叩くはずだったんですけど(笑)。

 14日の「則竹裕之スーパーバンド」、則竹さんのMCは「今日は緊張と興奮のあまり立つことができません」という第一声で始まりました。普段の落ち着いた話し方に較べて、この日は声のトーンが高く、話すスピードも速く、確かにハイテンションな気配が感じられました。

−−MCを聴いた瞬間、「あ! 今日はなんかいつもと違う」ような気はしたんですよね。

 毎日おなじ人はいないでしょう? いろんな日があるわけです(笑)。でも14日はものすごく楽しみにしていましたし。古川さんとステージに立ったときは、やっぱりもう非常に普通じゃいられない感じでした。T-スクェアからも応援に来てくれるし、またろうさんはいるし・・結構ドキドキしましたよ。

−−「Train In the Rain」の、最初の部分。パーカッションのまたろうさんとふたりだけで、ゆっくり「ダンダンダン」・・・って叩きながらテンポを上げていったじゃないですか。あれはアルバムにはないですよね。

 もともとは、ああやりたかったんですよ。ちょっとずつ汽車が加速している感じにしたかったんですけど、それをプログラミングしている暇がなかったので、アルバムではできなかったんですね。まあ、ライヴだったらどうにでもなるので、やってみたんです。
 
 ああいうやり方だと、どこまでいけば正規のテンポだったか、よほど冷静でないとわからないんですよ。あの日はとうに通り越して、やたらとテンポが速かったみたいですね。なんか暴走してました(笑)。完全にキレてましたね、あの日は何をしたかよく覚えていないですよ。

−−松井さんから見てどうでしたか。

松井 それは見ててホントわかりましたよ。でもこんなこと言うのもなんですけど、僕はあの日「Mia Cadol」で感動して泣いてしまったんですよ。不思議なもんですね。あの妙なテンションの入り方と、はじめて、とか、則竹さんの思い。いろいろあるじゃないですか。

 僕も、「Mia Cadol」でやってるときは、結構ぐっときていたんですよ。ちょうど初穂さんの顔がすぐそこに見えて。あの曲は初穂さん自身もものすごく思い出がある曲だから・・・、でもあの人はいつもひょうひょうとしているんですよ。クールというか。「うんうん、これでいいんだよ」って感じで。あの曲・・・いい曲でしょ。「よかったですよね・・・」みたいな気持ちになって、ぐっと来てしまって。

松井 「clione」のときの最後の「ドンドンドーン!!」っていう音のリバーブもすごかったね。でも、あれと照明の落ちるテンポ感が「長いな」と思ったんだけど、そのスッと落ちる感じがシンクロしてましたから、ぐっとくる感じでした。

 いや、俺はこれは「長い! これはみんな驚いているに違いない」ってハラハラドキドキ。

松井 いや、あれはそこまでのストーリーの完結した余韻が・・・。

 照明の方にはよろしくおっしゃってください(笑)。

松井 まあ、あれは偶然でしょう(笑)。

 いや、でもあの日はおかしかったですよ。僕らは最初にリハやって、出番は最後じゃないですか。他のメンバー達の入りから本番を終わって帰っていくまで楽屋で見ていたんだけど、みんなテンション高いんですよ。土岐さんはともかく、すとちゃんも、安藤さんと御厨さんとのやりとりもいい感じだなと思ったし。あの安藤さんが本番終わって楽屋に戻って来たとき、完全にハイテンションになっていた。なんか、いつもと違うなあ、みたいな(笑)。

松井 高校生の学園祭で、出し物やって終わって帰ってきた友達どうしみたいでね。最高でしたよ、あれ。楽屋を見せたいくらい。ああいうライブはまたやろうかということになるんですけどね。ただ、場所が・・・。(今回はクラブクアトロで、舞台スペースに限りがあって出演バンドごとに機材を出し入れしていた。)セッティングを変えるのに、お客さんにしたら15分は長いと思うんですが、15分が精一杯ですね。

古川初穂&石黒彰を迎えてのライヴ計画

−−ライブでは演奏されなかった曲に石黒彰さんの「Cyber City Slicker」がありますが、この曲に関してはプロデュースも全部石黒さんなんですよね。

 ええ、これだけ。これは古いですよね。 僕が石黒さんとセッションをよくやっていたときに、この曲をやらされたわけですよ(笑)。「難しいけどなんていい曲なんだろう」とずっと思っていて。アルバムの話が立ち上がったときに「あの曲ください」って電話したんです。 
 
 彼はね、正直な人だから最初ごねたんですよ。「あれは自分のアルバムにも入れたいしなあ」って。「じゃあ、ちょっと考えるから時間ちょうだい」といって2週間ぐらいしてから電話が来て、「いいよ」といってくれたんです。
 
 この曲はベースのバカボン鈴木さんと3人でやったわけですが、石黒さんは「こんなにキーボードをダビングしたのは初めてだ」と、とっても楽しそうにやってくれました。

−−カッコいい曲ですよね。これもライヴで聴きたい・・・。

 これをやるには、石黒さんを呼ばないとね。

−−全曲をライヴでやるというのは、なかなか難しいアルバムかもしれませんね。

 うん、いや、大丈夫ですよ。できるなら全員呼びたいです。でも、このアルバムに特にいっぱい関わってくれた人を各パートひとりずつ、キーボードはふたりいるんですけど、まあ、バンド化というか、ちょっといろいろライヴ活動したいなというのはあるんです。実現するかどうかはわかりませんけど。

−−ええっ。本当に!? 年内はもう忙しいでしょうし、来年の話になりそうですか。

 そうですね、来年が勝負ですね。やりたいですよ。

−−それで、ツアーなんかもありですか。

 ツアーねえ、ツアーまではどうかなあ(笑)。やりたいですよ、それはもう120%やりたいけど、みんな忙しいし。だけど、僕は夢があって、神戸の突堤でライヴをやりたいんですよ。あれさえできれば他は別にいいんです。

 昨年の「ライブハウスガイド」の取材のとき、誌面の都合で掲載できなかった中に、こんな話がありました。

 僕の夢があるんだけど、本当のソロのライブができるときには、神戸でやりたい。それで、海沿いの突堤でやりたいんです。
 神戸のポートタワーのたもとに「フィッシュダンスホール」っていうのがあったんです。そこは本当に建物が魚の形をしてるんですよ。クラブの走りみたいな、おしゃれで、音楽を聞かせる場所でした。そんな場所が今もあればいいんだけど、ないから突堤に仮設で組んで。海を背にね。
 ソロライブ、やってみたいですね。夢を見るんです。ソロライブをやっていて、自分の持ち曲がそんなにないのに、夢の中で曲ができちゃう。次はこういう曲やって、と思う通りに演奏が進んでいって。なかなか現実はきびしいですけど(笑)。

−−シチュエーションとしては最高ですけど、天気とか具体的なツメが、いろいろありそうですね。

 そこを(マネージャーの)松井さんが、がんばってくれると(笑)。

松井 (その場所を)見てきましたから。もう本人から聞いてまして、出張ついでに「今だ!」と行ってきたんですよ。

 電話がかかってきて、「いま、波止場にいます。ここですか?」じゃわかんないよね(笑)。「何が見える、そこから?」「海です」みたいな。

−−春か秋がいいんですよね?

 まあ、理想はね。でも、実現できるのならいつでもいいですよ。

インタビューを終えて

 CyberFusionで1997年春にインタビューにいったとき、則竹さんが熱海のスタジオ付きの家に引っ越したという話をちょうど聞いたのです。すごく驚いたけれど、ソロアルバムを作るためにも、どうしてもそうした環境が必要なのかもしれないとも思いました。
 
 引っ越しを決意する、家を探す、スタジオを作る、引っ越す。曲を作る、デモテープを録音する、アレンジを煮詰める。そしてレコーディング。T-スクェアの活動の合間を縫って、何年にもわたる膨大な過程。大変なことも多かったでしょうが、基本的にはそれらは楽しみながらひとつひとつ行われたのではないだろうか? などという気もするのです。だって、楽しめなければ、大変すぎて、とてもできないことばかりに思えるんですよね。
 
 夢って、何年も強く願っていると、ホントに実現するんですね。こうして夢に向かって着実に歩いている則竹さんを見ていると、本当に力強いものがあります。そして、自分の夢も絶対実現させるぞ! なんてファイトが湧いてくるのでした。(美芽) 

Interview & Text by Mime
Photography by Village Record
Copyright  by 1999 Cyberfusion

Dreams Can Goのディスクレビューへ
1996年の則竹裕之インタビューへ 
1997年の則竹裕之インタビューへ