自分のひかれる音楽をはぐくんだ街、ロンドンへ

則竹裕之インタビュー(1)

● 安藤まさひろがイギリスのポップスを聴かせてくれた

−−8月の終わりに、「2月からロンドンに行く」と発表なさいましたね。いよいよ、実際に行こうと決断をした決め手は何だったんですか?

「自分でもわからないんですよ。心の中の何かが、いたずらしたんでしょうね(笑)。前々から行きたかったけど、その気持ちが抑えきれなくなったんです」

−−ロンドンに魅力を感じはじめたのは、いつからですか?

「もともと僕は、T-スクェアに入るまでアメリカのジャズやフュージョンが好きでしたから、イギリスの音楽を知りませんでした。T-スクェアに入ってごく最初の頃、安藤(まさひろ)さんの自宅に行ったとき、いろいろな音楽を聞かせてもらったことがあったんです。それで、ニック・カーショウを聴いて『・・・すごいな・・・(絶句)』と衝撃を受けました。僕はそれまで、そういう歌がある普通のポップスを聴いていなかったんです。黒人ヴォーカルは親父の影響で聴いたりして、すごいなと思っていたけれど、自分から買ったレコードは全部インストだったし。

 それからもニック・カーショウは、当時はわりといいペースでアルバムを出していたので、新しいアルバムが出るたびに僕が先に買って『安藤さん、またアルバム出ましたよ』『あっ、そうなんだ』っていう感じで、自分ひとりで盛り上がってました(笑)。

 彼は結構ミュージシャンズ・ミュージシャンっていうタイプなんですね。最初はアイドル歌手として火がついて、全英チャートにも載っていたことがあるくらいで『ザ・リドル』っていう曲が、すごく流行ったんですよ。でも、ミュージシャンズ・ミュージシャンの評価はちゃんと別にあって、『僕もニック・カーショウは好きなんだよ』っていうミュージシャンの方は結構いらっしゃいますね。安藤さんもそうだし、最近でいうと小林信吾さんにその話をしたときに『彼はいいよね・・・』って言っていたな。知らない人も多いんですけれど、自分が好きなんだから、それは別にいいんです」

−−それがイギリスのポップスに関心が出てきたはじまりだったんでしょうか。

「ニック・カーショウは、僕がそれまで聴いたことがあるアメリカの歌ものや洋楽のポップスとは随分違ったんです。こういうすばらしい世界を生みだした土壌が気になってきて、それからニック・カーショウ以外にも、スティングだとか、ピーター・ガブリエルといったイギリスのポップスをその頃から聴きはじめました。独特な−−ちょっと暗い、湿度があって、憂いのある世界が、いいなと思ったんですよ。レベル42はそれ以前から好きだったけど、彼らの初期のアルバムはインストの曲も半分以上あったし、フュージョン・バンドとしての印象が強かった。その後レベル42はすごくポップになって、僕の中ではロンドン・ポップの代名詞みたいな存在になっていくんですが」

● 1994年、T-スクェアのロンドン・レコーディング

「ちょうどその頃、T-スクェアでは海外レコーディングをすることが多くて、いつか仕事としてイギリスに行けないかなと思っていたんです。毎年アルバムを作る前には次のレコーディングに関するミーティングをするんですが、あるとき『エンジニアは誰がいい?』って言われたので、僕は『ニック・カーショウのエンジニアをしていた、ジュリアン・メンデルスゾーンっていう人がいいです!』って提案してみた。すると『そうしよう』ってことになって、『ジュリアン・メンデルスゾーンに録ってもらうなら、イギリスだね』−−それで作ったのが、『ウェルカム・トゥ・ザ・ローズ・ガーデン』っていうアルバムだったんです。

 実際にイギリスに行ってみると、街全体が僕の思っていた通りでした。適度な湿度があって、憂いがあって、文化が深いというか・・・歴史が長くて、古い建物が残っている。この環境からイギリスの音楽は生まれたことを認識しました。京都もそうなんだけど、古い街に行くと落ち着くでしょう? 古い街には、長い時間をかけて洗練されてきたものが存在している−−そこが、好きなんですね。

 誰にでも好きな場所はあると思うけど、その場所にいるだけでドキドキするって、素晴らしいですよね。たとえば神戸にいると、何かやれそうな、自分はもっといけるんじゃないか・・・という気になってくる。熱海や、箱根、伊勢も好き、それと同じようにロンドンが好き。これって、土地のもっている目に見えないバイブレーションを感じているのかもしれないですね。

 イギリスっていうと、普通はまずビートルズなんでしょうけど、僕の場合はカーペンターズのほうが好きで、ビートルズを知ったのはもっとあとなんです。いま聴くと安藤さんがビートルズを好きだった理由もわかるんだけど、あくまで僕にとってイギリス音楽のとっかかりは、ニック・カーショウであり、ピーター・ガブリエルであり、ジェネシスだった。自分のなかで、イギリスってこんなところに違いないっていうイメージがどんどん膨らんでいて、実際にその通りだった。そして、いつか僕もロンドンに住みたいな、と思ったんです」

−−そのレコーディングは1994年ですから、もう6年前ですか。

「6年半になりますね。あのレコーディングとは別に、クラシックのアルバムをT-スクェアで作るときに、ドラムはオーケストラと同時録音するので1泊3日みたいなスケジュールで行ったことがあります。このときは、アビー・ロード・スタジオを使ったんですよ。ビートルズが好きな人にはたまらない場所でしょう。僕はあまりありがたみを知らずに行っんだけど、アコースティックな音が自然に鳴る部屋で、すごく音は良かったですね」

● 夢は「セッションドラマーになること」

−−今の話だと、イギリスのフュージョンというよりは、歌もののポップスを「いいな」と思われていたのかな? という感じなんです。でも、日本で則竹さんはT-スクェアにいたこともあって、ロンドンではジャズとかフュージョンの分野を目指しているのだろうか? と考える人もいるんじゃないでしょうか。あまりジャンルで区切ってもしょうがないんですか、そのへんはいかがですか。

「どう言えばいいかな・・・ 僕の原点は、スティーヴ・ガッドやヴィニー・カリウタに代表されるようなセッション・ドラマーになりたい、という夢なんです。日本だと(村上)ポンタ(秀一)さんにしても、山木秀夫さんにしても、その人が加わることによって、歌もの、ジャズ、フュージョンとジャンルを問わず、明らかに彼がやっているっていうこともわかる、でも全体がすごくサウンドする−−そういうドラマーになりたかった。

 それもあって、僕はジャンルで音楽を考えていないんですよね。好きなミュージシャンといえば真っ先にパット・メセニーが来るし、イエロージャケッツが好き。それと同じように、ニック・カーショウも好きなんですよ。そこで演奏にあたって、どちらがテクニカルだなんてことは言えないでしょう?

   ジャンルの中でも、たとえば『何がジャズなのか』って定義づけるのは、すごく難しいことですよね。僕にも、よくわからないんですよ。でも、いわゆる"ジャズ"っていうのは僕の中で原点だから、いま起こっている状況の中で、自分が何をするのかっていうことをみんなが探りながら、または瞬間的に体が先に動いてしまっているのか・・・わからないけれど、そういう緻密な世界、というか・・・。その瞬間の緻密な何かが、とても楽しいですよね。お互いがハーモニーしたときの喜びっていうのが、僕にとっての音楽の醍醐味だから。

 そのときにジャズなのかポップスなのかフュージョンなのかはどうでもいいことで、たとえばT-スクェアで『トゥルース』を叩いているときでも、演奏するたびに毎回何かが違うわけだから、気持ちはまったく同じなんですよ。いつも1拍1拍の前にその中で自分がどうやるかという数え切れないぐらいの選択肢が広がっているわけだから。そうやって演奏できれば、何に聞こえても、いいんです(笑)。

−−では、ジャンルについては、これまでと同じように、今後も特に限定するつもりはないわけですね。
 ロンドンに行ってからのことは、現時点ではほとんど何ともいえないと思うんですが、今後日本でも演奏をなさる意志はあるんでしょうか?


「旅行で行くわけではないし、行ったからには向こうで音楽生活をしたいというのはあります。いつまでに戻ってこようという計画は、あまりないですね。 実際に行ってみて、やっぱりダメだったとあきらめて帰ってくるかもしれないし、仕事がどんどんできるようになったら頻繁に帰ってくることもできるだろうし。日本にいてもロンドンに旅行に気軽に行けるわけだから、日本からオファーが来れば、できるだろうし。則竹は日本にいないんでしょ、って終わるんだったら、それまでだろうし。わかんないですね。

ただ、人に頼まれて叩くことっていうのは、僕にとってある意味でライフワークだから、その中でどれくらいできるのかを常に挑戦しているわけで、それはいろんな状況が許す限りやっていくんだろうな、とは思います。ただ、それは自分の中の予定というより、外からくるオファーであって、これまで自分のビジョンっていうのは、自分がもっといいドラムを叩きたい、っていうシンプルなものでした。そういう意味じゃない展望とか、こうしたい−−っていうのが、ロンドンに行きたい、ということなんですよ。

今は、やっぱりダメだったなんて帰ってこないように頑張ろうと思っています。もう、行くって言っちゃったし、事務所のボスにも『行ってこい!』って言われちゃったし、あとには引けないですね(笑)」

−−じゃ、今回の件がきちんと決まって、スッキリしましたか?

「ええ、スッキリしましたね。でも、『いったいどうするんだ、お前は?』って冷静に見ている自分もいます」

−−2月という渡英の時期が決定して、それを世間に発表してみて、今はどんな気持ちですか。

「本当は、こっそりいなくなりたかったんですけどね。でも、僕にとっては好きなミュージシャンがどこかに行ってしまうというのは、盛り上がることなんです。たとえば僕がアマチュアの時に、神保さんが『アメリカに行ってがんばります』ってことになったら、僕は非常に盛り上がっただろうし、そういう意味では、あとに続くアマチュアの人たちも『ドラムをやって上手くなると外国に行くヤツもいるんだ』なんて、夢が広がるんじゃないか−−なんてね。自分自身も、上手いとかヘタというより、夢を感じられるミュージシャンにひかれるほうですから、そうありたいとは思ってます。

   あと、僕の子どもが、いつか大きくなったときに、僕を誇りに思ってくれるんじゃないか、とかいうのもあるかな。よく、ああいう状態で親父は海外に行ったな、と思う時代が彼にも来るんじゃないかと。
 『親父はカッコいいんだな』って息子に憧れてもらえるような父親になりたいですから。(Part 2へ


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