プロフィール編 〜T-スクェアに入るまで〜


松本圭司インタビュー

もくじ

プロフィール編 〜T-スクェアに入るまで〜

●小4でウェザーの「バードランド」を弾く
●ピアノは「練習嫌い」
●ロック、ソウルにはまった中学時代
●高校で本格的バンド活動をはじめる
●上京、そしてミュージシャン生活へ
 
 



 
●小4でウェザーの「バードランド」を弾く

松本は北海道・札幌生まれ。エレクトーン教室に入ったのは小学校3年生からである。それまでは、誰にも教わらずに家でピアニカを弾いていた。

「幼稚園の頃から、ピンク・レディーの曲をテレビで見て、テレビと一緒に、兄ちゃんのピアニカを奪って弾いたりとか(笑)してましたね。ピンク・レディーは、どっちかというと、ミーちゃんより、ケイちゃんの方が好きだったんですけど(笑)」

 テレビから流れてくるメロディーを覚え、その音を自分でピアニカから拾って、ひとりで鍵盤を弾き始めたわけである。ピンク・レディーの曲といえばテンポも動きも速いものが多く、初心者に弾きやすいとは思えない。何の曲を弾いていたのかは、自分でも覚えていないという。

「でも、どうせやるんだったら、ちゃんと習った方がヘンな癖がつかなくていいんじゃないかと思って。親もそう考えていたみたいで、『じゃあしょうがないね、習いにいきなさい』『わかりました、行かせていただきます』ということで。習いにいくことになって、親が中古で安いエレクトーンを買ってくれました」

 ちょうど小学校3年生から1年間、松本は家の仕事の関係で稚内に住む。そこでエレクトーン教室に入ったのだ。そこで演奏していたのは、歌謡曲やヒット曲。「サザンの『チャコの海岸物語』なんか弾いてました」

 4年生になってから、松本と家族は札幌に戻ってくる。そこでついたエレクトーンの先生が女性で「すごく素晴らしい先生だった」。彼女の門下で現在プロのキーボーディーストとして活躍している人が何人もいるという。

「4年生で彼女に習いはじめてすぐに、ウェザー・リポートの「バードランド」を弾かされて、発表会でも『バードランド』を弾いたんです」
 といって松本はイントロを歌いはじめ、なんとAメロ途中まで歌ってくれた。

「そのとき『ヘヴィ・ウェザー』を先生にダビングしてもらって、すごく何度も聴いた記憶があります。そのテープは今でも持っています」
 エレクトーンを習って2年目にして、「チャコの海岸物語」から、いきなりウェザー・リポートである。しかし松本はそれを弾いてしまった。

「フュージョンみたいな音楽との出会いは、そのときからでしたね。それで大好きになったんです」
 松本は1973年生まれ。小学校4年生といえば、1980年代前半で、フュージョンが盛り上がっていた時期である。
「当時のスクェアも、イギリスのシャカタクとかも好きでしたよ」

 しかし、エレクトーンでフュージョンを弾いたのは4年生のときまで。
「先生のすすめでJOCをやらされたので、自分が作った曲を弾くようになったんですよ」

 JOCとはヤマハの「ジュニアオリジナルコンサート」の略。子どもが曲を自作自演するイヴェントである。テレビでもJOCの作品を子どもたちが演奏する番組が放映されているが、松本はその番組に出演したことがある。
「小学校の4〜5年の頃かな。よく覚えてないんですけど」
 
JOCのために曲をつくることで、松本は作曲・編曲の基礎を身につけることができたにちがいない。その頃に作っていた曲の雰囲気は、いまとさほど変わらないものだったという。
「メロディーがあってハーモニーがあってリズムがあって。一応リズムボックスを使ってました。8ビートとかのロック系のリズムを使って作っていたと思います。ジャズじゃありません(笑)」

●ピアノは「練習嫌い」

 エレクトーンで鍵盤楽器をはじめた松本だったが、小学校のときにエレクトーンと並行してピアノも2〜3年ほど習っていた時期がある。
「さぼりがちだったんです。なんかイヤだった。ソナチネとか、やりましたね。バイエルはやってないけど、ブルグミューラーとかチェルニーとか。いまは何も弾けないですね、覚えてない。
 エレクトーンは続けていたんだけど、ピアノはやめちゃったんですよね。弾いている曲がつまんなかったんだなあ。やってる曲、やらされている曲が起伏のない感じ。
何のために僕はこれをやっているのか、みたいな」

 ピアノの練習が嫌いだった松本は、ピアノのレッスンに行って、初見で全部弾いたりしていたという。
「そうそう。練習しないから、レッスンに行って、練習してきたかのように目をぎらぎらさせて弾くの(笑)」
 レッスン嫌いは相当のものだったようだ。

「一度ね、行きたくないから直前までゲームセンターでゲームしてたんです。
 そしたらレッスンに行くバス代をもらっていたのを、ゲームで使っちゃったの。だめだ、行けない、ってことになって、その日雨が降っていて、しかも距離がかなりあるんだけど自転車で行ったんです。

 途中でコケて、骨にヒビが入っちゃって、死ぬほど痛くて。でもその状態で自転車を押して先生のところに行ったら『帰りなさい』って言われて。
 帰ったらうちの母さんに『バカ』って死ぬほど怒られて。死ぬほど痛かったのに、ぶったたかれて、もう踏んだり蹴ったり(笑)」

 ピアノの場合、エレクトーンよりも手の形についてうるさく注意される。

「なんか先生が言ってましたねえ」

 手の甲がへこまないようにしろとか、手がつぶれないようにしろとか、言われなかったですか、と聞くと、松本は「あっ、そうそう。それはあったな」と思い出した様子だった。

「普通に弾いてるんだけど、上からすごい力で手を押されて、それに対抗できるようにしろとか。でも、そういう練習ってほとんどしてきてないです。練習したほうがいいっていうのはわかってるんですよ、したほうがいいのは(笑)」

 エレクトーンのような鍵盤を弾くぶんには、そんなに筋力も使わないし、ピアノほど手の形のついて注意されなかった、という。

●ロック、ソウルにはまった中学時代

 エレクトーンに打ち込んでいた松本だったが、中学2年ぐらいから当時のロックにはまっていく。

「ロックって、エレクトーンでちまちま弾いているものより、ものすごくカッコよく聞こえたんです。僕には4つ上の兄がいて、ちょうど勢いが出てきていたイギリスもののロックバンド・・・デュランデュランとか、カルチャークラブとか、U2とか、そのへんを兄はよく聴いていたわけです。それを僕も自分で聴くようになって。エレクトーンでこんなことやってるよりカッコいいじゃないか! 習い事なんか、やってられるか!!って、中2いっぱいでやめました。
 
それからは近所の友達とバンドを組んで、ポリスとかエリック・クラプトンとか、メジャーな洋楽系のバンドで、ドラム叩いたりベース弾いたり歌ったりしてました。
キーボードは弾いてませんでしたね

 中3のときにシンセを買ってもらって、それが僕には大きかった。機種はローランドのD−20。シーケンサーとかも簡単なのが内蔵されていて、これですごくいっぱい打ち込んで作りましたね。エレクトーンだと手が2つに足しかないけど、シーケンサーだと重ねられるじゃないですか。それがうれしくて、うれしくてしょうがなかった。
 で、バンドをやって、ポリスの曲を歌ったりしてました。『Every breath you take』とかね。『君が息をするたびに!』(また歌いはじめる)」

 その頃、松本の音楽観に衝撃を与える出会いがあった。

「『モンタレー・ポップ・フェスティバル』っていう、ジミ・ヘンドリックスと、オーティス・レディングをカップリングしたビデオがあったんです。僕はそれを買って見て、すごく衝撃を受けたんですよ。ジミヘン見たさで買って、僕はいまでもガツンと衝撃を受けたまんまなんですけど、オーティスもすごく良くて、それでまあ、ソウルとかもいいな、と。

 今はやっているソウルは、モータウン直系っていうか・・・でも、オーティスはスタックス系なんです。かなり大ざっぱにいって、モータウンとスタックスってレーベルがあって、今のソウルミュージックのチャートに、オーティス・レディングみたいな音楽はかなり少数派なんですよ。
 ブッカーT&MGの『グリーン・オニオン』って曲、知りませんか?(歌いはじめる) モータウンより泥臭くて、南部の感じなんですよね。僕はこっちが好き」
 
●高校で本格的バンド活動をはじめる

 高校に入ってからの松本は、軽音楽部に入って、ますます多くのバンド仲間を得ていく。

「高校1年生のときに初ライヴをやりました。練習は友達の家でやってました。ドラムはエレドラみたいなのがあって、ちゃんと練習できる環境だったんですね。しょっちゅうやってました。あとは、高校の部室で」

 高校のときのバンド仲間は、松本以外にも何人かプロのミュージシャンになっている。松本のほかに「オットットリオ」に参加したキーボーディストに扇谷研人がいるが、彼は松本の高校の同級生である。

「ほかにもギターの田中義人くん。バードとかモンド・グロッソとかやって、ものすごい売れっ子です。ベースの山田章典くん、いまTMレボリューションやってます。
ドラムの田中栄二くんはチカ・ブーンとかやってます。ぼくが東京に来るときに、山田章典くんに『松本がいなくなるとバンドできなくなるから誰かキーボード紹介して』っていうときに紹介したのが扇谷くんなんですよ。

 高校の頃は、みんなうまいヤツが多かったんだけど、友達どうして『あいつはギターがうまい』とか『ヘタ』とか言うのを聞いて、すごくびっくりしたんです。「ヘタだと一緒にできないんだ・・・」って。人のことをヘタだと思ったことがなかったんです。
 中学校のときに一緒にバンドをやっていたヤツなんて、いま考えると、うまいかヘタかっていったらドヘタですよ。でも楽しかったし、一緒に音楽できた。今もうまいからどうなんだ、ということはすごく思いますね」

 当時ロックやソウルにはまっていた松本だが、一方でジャズも聴きはじめる。
「高校に入ったばかりの頃って、ジャズってインチキくさい音楽だと思って嫌いだったんですよ(笑)。すごい安っぽいキャバレーっぽい感じというか。でも、高校2年ぐらいのときに、自分がミュージシャンになろうと決意したんですよ。もうやるしかない、と。そのときに、ジャズもできたほうが仕事が増えるだろうと思ったんですよね。それで無理やり聴きはじめたんです。マイルスとかコルトレーンとか、王道のやつ。

 聴いてみて『いいな』と思いました。マイルスってそのときも安っぽくは聞こえなかった。カッコいいぞ、と思えた。僕が思っていた『安っぽいジャズ』って、なんだったんでしょうね(笑)。最初は聴くのがちょっと辛かったですけどね。でも、高校生のときにジャズ喫茶とか行ったりして、夜通し聴いたりとかしてましたよ」

 小学校4年生でウェザー・リポートの「バードランド」を演奏していた松本だったが、その後はフュージョンとは別のジャンルの音楽に浸って成長していったことになる。

「うん、もう全然違うほうに。でも、高校生のころにチック・コリアがアコースティックのトリオを組んだアルバムが出て、僕の好きだったフュージョンの感じとジャズがうまくミックスされていて、それがすごく聴きやすかった。今はそのときほどいいと思ってないんですけど(笑)。だから、入口としてはそのへんに助けてもらっているのかな」

 松本は高校に入ってから「ジャズを弾けなくちゃだめだろう」と考え、音楽準備室のようなところにあったピアノを使って、独学でジャズピアノの練習をしていた。
 エレクトーン出身者がピアノを弾こうとすると、鍵盤の重さがまったく違うので指に負担がかかるというのはよく言われることである。松本も例外ではなく「指はしんどかったですよ、今でもしんどいし」と語っており、苦労はあったようだ。
 しかし、松本はその後もジャズ・ピアノを弾き続け、ジャズ・ピアニストとしてもライヴハウスに出演するようになっていく。

上京、そしてミュージシャン生活へ

 高校卒業時にミュージシャンになるため上京を決意、横浜・日吉にあるヤマハ音楽院(旧・ネム音楽院)に入学する。

「音楽学校がいろいろあるじゃないですか、メーザーハウスとか、アンとか。親が『小さい頃からヤマハにお世話になってるから、ヤマハがいいんじゃないか』ということで、ヤマハにしたんです。今思えば、勇気を振りしぼってバークリーとか行ってもよかったなと思いますけどね。最近宮崎(隆睦)さんなんかとお話して、日本じゃないところで音楽できるのもよかったかな、すごくくやしいなと思って」

 そしてヤマハ音楽院在学中から、プロ活動を始める。
「ソニーの人と知り合って、アルバイトみたいな形で、月給もらってレコーディングで、スタジオで歌手の歌とかレコーディングしてたんです。マイク調整して(笑)。
僕はアシスタントエンジニアみたいな立場だったんだけど、アレンジャーに向かって『そこのコードはこっちのほうがいいんじゃないか』とか言ったら、メインエンジニアの人に後ですごく怒られました。『お前はそういうことに口を出しちゃいけない立場なんだ』って。でも、アレンジの仕事とかそこからもらったりもしましたね」

 この時期に、エレクトーンの譜面でT-スクェアのアレンジの仕事もしている。

「1曲だけエレクトーン用にT-スクェアのアレンジやってます。『ミストラル』っていう曲。エレクトーン・アラモードというやつでね、弾くと伴奏がついてくるんですよ。伴奏データも作らなくちゃいけなくてね。大変だったけど楽しい仕事でした」

 昼間はそうした仕事をして、夜にはジャズのライヴハウスによく行っていた。
「新宿ピットインとか、新大久保のサムデイの『セッション・デー』っていうのがあって、誰でも参加できるんですよね。そこにとりあえず毎回行って、ジャズをやってました。それこそ『どジャズ』ですよ。

 その頃はけっこうバランスとれていてね、歌謡曲みたいな音楽にかかわってレコーディングのこととか学びつつ、ジャズのセッションも夜やって、自分としてはバランスがとれた時代でした。19から20歳のころですね」

 21歳になって、ジャズギタリストの滝野聡のバンドに急遽参加することになった。
「ここで出逢ったのがドラムの村石雅行さん、彼は僕の人生の師匠ですから。この出会いは大きかったですね」

 村石は東京芸術大学の打楽器科の出身である。彼の紹介で、同じ芸大出身のバイオリンの落合徹也や葉加瀬太郎など、知り合いが広がったという。松本は葉加瀬太郎より、落合徹也のほうと先に知り合っている。

「落合さんがG−クレフが終わって、自分で『粗品』っていうソロアルバムを出したんです。レコーディングには参加しなかったんだけど、アルバムの発売後からライヴに参加させてもらいました」

 この滝野聡のツアーをまわったことで松本は「なんだ、オレ、ジャズで食べていけるじゃん。こんなつまんないものはやってられない」と思って、ソニーのスタジオの仕事を辞めた。しかし実際には、ジャズだけで生活していくのはとても無理だった。

「それで食えなくなって、ピアノの先生をはじめたんです。ライヴハウスのセッションはいっぱい出ていたし、自分でブッキングしてジャズのトリオとかもやっていたんですけど、当然お金にはならなくて。先生でもやらないと『死ぬ』と思って(笑)。その後、葉加瀬太郎さんのバンドをやっている途中から『これで食っていける』と思って、教えるのは辞めましたけど」

 松本は、葉加瀬太郎から「音楽の作り方、発想とかの部分で、すごく影響を受けています」という。

「その頃いろいろ迷っていたんですよ。自分はジャズ以外にもいろいろなことをやってきているわけですから、ジャズだけをやることが不自然に感じるようになっていた。
 そんなときに葉加瀬さんと会ったんです。あの人の音楽はインストだけど、ポップですよね。でも、イージーな作りをしているわけではなく、すごく細かいところまでこだわりがあった。こういう形でインストができたら、いいなと思いました」
 
 そして松本はT-スクェアのオーディションを受けることになる。オーディションでは、他の4人のメンバーと一緒にT-スクェアの曲を演奏した。

「3曲やりました。『Sailing the Ocean』って曲(『GRAVITY』)、『宝島』と『Hearts』。『宝島』は小学校のときにエレクトーンで弾いたりしていたから、覚えていたんですよ。その曲ができたのはうれしかった」

 オーディションでは、いろいろな人が来て、順番に弾いていくことになる。
「人と会うんですけど、それが知り合いの人だったりするんですよね。『あれ!?』ってことがありました」

 そしてサポートは松本に決定。ここから松本のT-スクェア時代がはじまる。


ウェザー・リポートのディスコグラフィー(CDNow)
ポリスのディスコグラフィー(CDNow)
オーティス・レディングのディスコグラフィー(CDNow)


はじめに
近況編 〜松本圭司のやりたい音楽とは? T-スクェア在籍期間をふりかえる〜

Interview & Text by Mime
Copyright  by 2000 Cyberfusion