濱川 礼
Rautavaaraを聴きながら Michaelの発病を聞いて以来、覚悟していたとは言え悲しい事が現実になってしまった。楽器で音楽を語れなくなってしまっても構わない、元気に生活出来て普通に音楽を語ってくれればと思っていた。メールも敢えて控えていた、全快するまではと。そして、治ったら彼との約束を果たすためにNYの彼の家に遊びに行こうと思っていた・・・叶うことの出来なかった希望と夢は今も私の心を彷徨っている。 人間は音の中で育つ。そして音楽として聴く自我が生まれる。ほとんどの人にとって音楽は人生に何らかの意味を与えている。人生の節目時に流れていた音楽はいつまでもその事象と音楽がセットとして記憶の隅に残る。刹那に移り行く季節のように嗜好が変わる場合もあるがろうし、ずっと聴いていると飽きが来る場合もあるであろう。また一方、一つの音楽に深く嵌り込み、いつまで経っても飽きることも移ろうことも無くずっと人生の傍にいる場合もある。Michaelの音楽は私にとって、そういう後者の類の音楽であった。そして彼自身との交流が始まった時に音楽という次元を超えて心に染み込んでいったのだ。 最初にMichaelのライブを聴いたのは82年の六本木Pit InnでのStepsである。ニコニコした表情で煙草を加えたままステージへ。「Tee Bag」が始まると煙草を指に挟んだままテーマを吹いて、テーマが終わると、またそのまま煙草を吸って一息。ヤラレタ!と思った。そして、繰り広げられる、その繊細かつパワー溢れる演奏に圧倒された。これだ!と思った。これこそが自分の求めていた音楽だ!と感じた。 以来、日本でライブがあれば必ず駆けつけた。「Michael Brecker Special Band」、Body & Soulでの佐藤允彦を交えたジャムセッション…印象に残る演奏は数え切れない。アメリカVirginia、George Mason Universityに留学中は近くのBlues Allay やBayouへも聴きに行った。Wolf Trapでの野外コンサートでRay Charlesの前座で出ていた時も聴きに行った。またLP, CDを買い漁った。アマチュアながらバンドで色々と彼の曲も演奏もした。 若島正は「乱視読者の帰還」(みすず書房)のあとがきで自身を「・・・三十歳のころ、ナボコフに出会い、それから次第に世界がナボコフ色に染まっていくのを体験した。・・・」と記している。それに擬えるならば、「Michaelに出会い、世界がMichael色に染まっていくのを体験した」ということにでもなるであろうか。 やがて、それだけでは満足出来なくなり彼のDiscographyを作成しようと思い立つ。切っ掛けは単純であった。「ジャズ批評104」(ジャズ批評社)でも述べたようにインターネットでMichaelのDiscographyを作成したという海外の人がいたので送ってもらったら私の所有しているLP, CDの完全なサブセットだったのだ。日本の雑誌等他にも幾つかあったが、それでも実際に彼の参加しているアルバム数よりは遥かに少ないであろう。 こうなれば自分自身がMichaelマニアとしてより完全な彼の情報を編纂すべきと無謀なそしてある意味勝手な使命感に燃え始めたのである。そうすることによって彼の目指している音楽がもっと理解出来るのではないかと考え、また同時に彼の音楽がもっともっと人に知ってもらうことに一役を担うのではとも思ったのである。ジャズの巨人とは言え、世界は広い。彼を知らない人も大勢いるのだ。 当然のことながら、これは中々大変なことである。何しろCompleteを目指しているのであるから。当時のインターネット事情は今に比べれば貧弱であったが、それでもネットで同好の志を募ったところ、自分と同程度、あるいはそれ以上の彼のファン何人かが私の意見に同意、Completeを目指した作業を情報交換しながら協同で行う体制が固まった。また、このDiscographyの初期版が某CDショップと連携して配布(と言っても我々はビジネス的に何も得ることは無いのだが)したことにより、更に強力なメンバー達が参加。以後、このメンバー達はかけがいの無い大切な友人となる。メールで情報交換、会っては飲んで語る・・・喜楽を共に、そしてこの一月に悲を共に分かち合うことになる。 このような作業を続け600枚近くデータを揃えたところでMichael本人に渡すことを決意した。Michael本人はどう思うのであろうか?ひょっとすると本人は完全なデータを持っていて、なんだこの程度で、と思われるかも知れない。そもそも興味が無いのかも知れない。そして、こんな作業をしている私を始めとしたメンバーをどう思うのであろうか?しかし、とにかく本人に見てもらい、どんな感想を持つのかが知りたかった。 そして彼が1994年の6月に来日した時にBluenote Tokyoの楽屋に仲間を代表してアポなしで乗り込んだ。まず、店内で店員に彼と会いたいと申し出た。店員にはアポイントが無ければ会うことは出来ない、と慇懃に断れられた。ここまでは想定内であった。そこで用意してあった手紙を店員に渡し、これを彼に読んでもらって欲しいと頼んだ。手紙には「貴方のDiscographyを作成中で、渡したいのでほんの少しでも良いから時間を割いていただけないか」と。しばらくの後に店員が来る、「彼が会いたいと言っています」。 私は胸の動悸を抑えきれず楽屋に向かった。彼は暖かく迎えてくれた。そしてDiscographyを見て非常に驚いていた。自分自身はこんなデータは持っていないし、世界中でも見たことがない、と。「こんなの録音していたっけ?」「おぉ、懐かしいアルバムだ」と指で具体的にアルバム名を示しながらはしゃいでいる。私を抱きしめてくれた。私は生まれて初めて自分より背の高い人とハグした(笑)。そして、感謝の言葉迄かけてくれた。そのフランクな態度は意外でもあり嬉しかった。 それから彼との交流が始まる。彼は世界でも私のことを語ってくれていた。現在のMichaelの公式サイト管理人のPaul CroteauからもMichaelの紹介でメールが来て、データを提供したことがある。フィンランドのジャズ雑誌のインタビューで彼は「Rei Hamakawaが自分の過去をすべて知っているので、自分は安心してこれからの音楽に向かっていける」等と名指しでこちらが卒倒するようなコメントもしていた。 メールでも何か送れば、すぐ返事が来る。ツアーに出ていても、いや日本に来ていてさえもメールをくれるのだ。また、楽屋は名前を言えばいつでもフリーパスにしてもらえた。音楽の技術的な話から、楽器の話、芸術論、そして私生活、色々な話をした。「NYの家に遊びに来い!歓待するよ」とも言われた。「(彼の)両親が彼のデビュー以来初期の頃の参加アルバムを全部収集していてそれがダンボールにある。ぜひ調べに来て欲しい」とも言われていた。彼はミュージシャンとして最高であるばかりか人間として魅力溢れていた。男が男に惚れるとはこのことであろうか。 また、ファンのことを非常に大切にしてくれた。一度、某ジャズフェスティバルを仲間と聴きに行った時、主催者側の意図で楽屋への入室が私のみしか許されないことがあった。そこで楽屋で少しMichaelと話をした後、私は彼に言った。「実は外に知り合いのファンが待っているんだけど、少しだけ顔を出してくれないか?」彼は即座に「OK!」と言った。そして、係員の制止を振り切るように、二人で長い通路を走った。そして通路のドアを開けた時、彼はニッコリと私に微笑み、そして仲間達と握手を交わした。隣には少し遅れてやってきた困った顔をしている係員がいた(ごめんなさい)。また、別の機会に、彼と仲間数人で彼の宿泊先のホテルでランチを取ることになった時のこと。彼は一旦ロビーに出てきた後、思いついたように、部屋に引き返す。そして、人数分の日本で発売されたばかりの彼のCDをプレゼントに持ってきてくれたのだ!(ただし、これには後日談がある。実は全員既にCDを持っていたのだ!Michaelは「Oh!」と言って、こいつらぁ、という感じで呆れ笑っていた)。 他にも夜、彼と飲みに行く時に楽屋から出てタクシーに一緒に乗り込んだ時に「We made it!」と何か非常に解放されたような喜びを前面に出しはしゃいでいたのも印象的であった。ホテルに迎えに行ったらバンドのメンバーの荷物が何の手違いか沢山漠然と置かれて、ホテルの従業員が困っていた。そうしたら私と会うためにロビーにたまたま出てきたMichaelが一生懸命、これは誰のトランクと説明していたこともあった。また彼を送った時に(その時はホテルに迎えに行っていない)、彼から宿泊先と聞いていたホテルに着いたら、「どうも記憶が無い、違うホテルかも知れない」と言われてびっくりしたこともあった。結局、彼の勘違いであったが。 彼と日本のファン・マニア達とのプライベートパーティも数回開催した。提案した時は彼が承諾するのか、実質的にスケジュール調整が可能なのか、と疑問もあったが彼は「Good ideaだ」と快諾してくれた。そして、実際パーティでも、私のある意味つかの間のプライベートな時間として想像以上にエンジョイしてくれた。ファン、マニアが時にたどたどしい英語で一生懸命、彼への思いや質問をぶつけるのを丁寧に聞いて答えてくれた。「Rei!こんなパーティは世界中でどこにもないよ!」と言ってくれた。彼は自身のカメラやiPodに記録して一部は彼のホームページにも少し掲載されたこともあった。 嗚呼!徒然なるままにキーボードを叩いていたら、こんなに…思い出は尽きないがこの辺にしておこうか。 最初に述べたようにMichaelの音楽は自分の内面に常に何かを訴えかけてくる。楽しい時も哀しい時・・・様々な時に聴いた。そして色々なことを教えてくれた。 しかし、そのことは勿論だが、ある意味、それ以上に自分の心に残るのは彼の人間性である。その優しさと包容力。言わば一介のファンに過ぎない私、その私の彼の音楽への理解と情熱を感じてもらい、そして多忙な中嫌な顔一つせず、と言ってファンへの単なる愛想でもなく、私の言葉に耳を傾けて常に前向きに接してくれた。話している時の彼の優しい眼差しは一生忘れないであろう。 Michaelは音楽に貪欲であった。ジャズは勿論のことあらゆる音楽に。私が懇意にしているロシアの現在作曲家のNikolai KapustinやAlexander Rosenblattの曲を紹介した時も、非常に興味深く聴いていた。特にKapustinに関しては、「これは凄い!Harbie (Hancock)に聴かせなくちゃ」と語っていた。残念ながらHarbieに聴かせたのか否かMichaelから確認することは出来なくなってしまった。また彼は数年前、フィンランドの現代作曲家Einojuhani Rautavaara(ラウタヴァーラ)に興味を持っていると言っていた。Rautavaaraはクラシックでは(特に現代やピアノファンには)比較的有名であるが、Michaelの口から聴いた時はびっくりした。 今、Rautavaaraを聴きながらこの原稿を書いている。Michaelはこの音楽に何を感じていたのだろうか。自分に還元する何かアイデアを得ていたのであろうか。それは永遠に蓋をされてしまった。 これからもMichaelの音楽は自分の中に常に存在する。Michaelマニアは終わらない。 Thank you, Michael, but I miss you very much. 濱川 礼 |
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