追悼特集:マイケル・ブレッカー
橋 雅人




橋 雅人
当サイト主宰者。マイケル・ファン歴30年
東京、大阪、ニューヨーク、カリフォルニア、モントルーなど各地へマイケルを追い続けた


マイケル・ブレッカーが57歳の若さでこの世を去るというあってはならないようなことが、1月13日に現実となってしまった。

マイケルと橋 1984年
Seventh Avenue South前にて
マイケルの名前、音を初めて耳にしたのは1978年の深町純率いるニューヨーク・オールスターズの来日公演だった。
その後、1980年にオーレックス・ジャズ・フェスティバルのJazz of The 80sで初めて生マイケルをかなり遠くから目にしたあと、ステップスの初来日公演、1981年のブレッカー・ブラザーズと立て続けに見に行くがその時点ではまだ普通の1ファンに過ぎなかった。

ところが、そのステップスのピットインでの来日公演のライブ盤「Smokin' In The Pitt」が私の人生の方向を決定付けることになる。1曲目の「Tee Bag」のマイケルのサックスの音色を聴いたとたんに電流に打たれたような感覚を覚えたのだ。今にして思えば一目惚れのような感覚だったのだろうか。

その後、なんとしても生のマイケルを目の前で見たいという衝動に駆られるようになり、当時大学生だった私はニューヨークに行くことができる仕事を探し出して就職し、1983年から1984年にかけて約1年強に渡ってのニューヨーク滞在がかなうことになった。住む場所は当然、セブンス・アヴェニュー・サウスの近所という条件で探し、1年間そこに入り浸っていた。

セブンス・アヴェニュー・サウスの最前列席で見たSteps Aheadでのマイケルは当然の如くレコード以上に、また日本で見たとき以上に凄まじいインパクトでもうマイケルの音から離れなくなってしまった。
その後は二十数年間にわたってマイケルの参加アルバムを買い漁り、アメリカ、ヨーロッパ、日本と場所を問わずにマイケルを聴きまくるということになってしまった。

ここ数年はこのサイトの取材や非公式ファンクラブでの集いを通して個人的にもマイケルとちょっとした話をしたり、メールのやり取りをするようになった。
カリフォルニアのサンタ・クルーズでライブを見た際にはステージから私を見つけたマイケルが終演後、わざわざテーブルまできてくれて1ファンとしてはこれ以上ないという栄誉にも恵まれた。

マイケルの人間としての優しさを感じたのは2004年のクインデクテットでの来日公演の際に大阪でマイケルから聞いた話だ。マイケルだけがヒルトン・ホテルに宿泊し、他のメンバーは主催者側の予算の都合で、皆ビジネスホテルの宿泊なってしまったのだが、ビジネスホテルの部屋があまりに狭かったので、十数人のメンバー全員をマイケルの自腹でヒルトンに移らせたのだと言う。

また2003年のマウント・フジでのブレッカー・ブラザーズの再結成公演のあとに顔を合わせたときのマイケルの第一声が「I'm sorry.」だったことも記憶に残っている。リハーサル不足でアンサンブルがうまく行かなかったことを詫びる言葉だった。トッププロとしてなかなか素直に言える言葉ではないと思うのだが、マイケルの謙虚さが現れていたのだと思う。

その翌年2004年のマウントフジでの再結成STEPS AHEADではステージが始まる直前に少しだけマイケルとバック・ステージで話せる機会があったのだが、そのときに背中が痛いということを言っていてちょっと心配になった。ただ一旦演奏が始まってしまうといつも通りの強烈なブローで、痛いと言っていたけど、全く大丈夫じゃないかと思っていたのだが、今にしても思えばそれが死の病の最初の自覚症状だったのだ。このときのライブの模様はWOWOWで放映されたのだが、その録画を見ると1曲目「Beirut」の最初のテーマを吹き終わったところで背中を押さえているのがわかるのが、痛々しい。

その後、帰国したマイケルとのメールのやり取りで、骨粗鬆症のため背骨が骨折していたと聞いていたのだが、その数ヶ月後に精密検査の結果、骨髄異形成症候群だったという知らせが入ってくる。

そして昨年の8月にカーネギー・ホールでハービー・ハンコックのステージでの飛入りという劇的な復帰劇の知らせが入ってきて大喜びした翌日にもらったメールでは、これから演奏の機会を増やしていきたいと言っていただけに完全復帰への期待をしていたのだが、個人的にはそれが最期のやりとりになってしまった。

マイケルを失った喪失感はあまりにも大きい。
私たちはきっとこれからもマイケルをレコード、CDの中に追い求め続けるだろう。
しかしマイケルの最大の魅力はレコードやCDというフォーマットに収まりきらないスケールの大きさにあった。目の前でライブで聴くマイケルのサックスの魅力は、ささやくようなニュアンスの音から、吹き上げる凄まじいまでのフラジオまでとてつもないダイナミクスの大きさにあった。
既存のオーディオ・フォーマットの規格で聴いていると、その物理的限界からか残念ながらその魅力の一部しか捉え切れていない。これからは記憶でそれを補いながら残された音源を聴いていかなければならないのだ。

それでも私たちはマイケルと同時代に生き、生のマイケルを何度となく体験させてもらったことを感謝しなければいけないだろう。

ありがとうマイケル・ブレッカー。

橋 雅人



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