Barry Finnerty(バリー・フィナティー) マイケルの思い出
マイケルとランディーに初めて会ったのは私がニューヨークに移ってきた1973年のことで、彼らはその頃既にミュージック・シーンのスターで数々の人たちのレコードで演奏していた。
それでも彼らは他のミュージシャンにとって取っ付きやすく、気さくだった。 私たちは皆まだ若くて、私は21歳、マイケルが23歳、ランディーは多分27か28歳だった。今でも覚えているのは俳優である父のウォーレンと当時流行の先端をいっていたロック・クラブ「マキシズ・カンサス・シティ」にたむろしていた時にたまたまマイケルとランディーが入ってきて同じテーブルに座り、そこでお互い知り合いになれたんだ。
当時はニューヨークのシーンは今とはかなり違っていて、ずっと気軽だった。 私は1971年にボストンのバークリー音楽院に通っていた当時19歳で、ドリームスのレコードで初めてマイケルを耳にした。学校全体が若くして熱く高度な演奏をするホットで新しいテナー奏者の噂で持ちきりだった。そして私がニューヨークに出てきたときには、彼は一緒に演奏してみたい人たち中の間違いなくトップだった。それらのジャム・セッションは私に最初のその機会を与えてくれた。
彼には間違いなく優れた才能があった。コルトレーンとソニー・ロリンズの伝統を受け継ぎ、とてつもないテクニックとソウルフルなトーンを持った素晴らしいテナー奏者だ。 ジミ・ヘンドリックスのようなギタリストからもインスピレーションを得ていたとも思う。しかしながら、彼はこれらの影響を受けながらも、自分自身のものを創っていった。マイケルは比類なき存在で、多数の模倣者を刺激した。彼は間違いなく過去30年間でもっとも影響の大きなサックス奏者であった。ところで、彼はとてもよいピアニストでもあったし、なんとドラマーでもあった。 これほどの才能と能力のある人間は世界一自己中心的かと思うかもしれないが、実はそうではない。マイケルはとても優しく、謙虚で、純粋にいい人だったのだ。 彼はとても優しくて、若い頃はニューヨークのとても魅力的な女性たちがほっておかないほどの性格で、友人たちを刺激し、ドン・グローニックは彼についての「The Whisperer(ささやく人)」という曲を書いている。(訳注:ビリー・コブハム「Flight Time」に収録) デイブ・リーブマンはマイケルの葬儀に出席した後に送ってきた手紙の中で興味深いことを言っている。彼とマイケルはジョン・コルトレーンの音楽との親密な関係を分かち合っていたが、「より大切なことは謙虚さと人間性と誠実さに関してコルトレーンが皆に残してくれたメッセージだ」と。そして彼のひょうきんさと時々みせる控えめなユーモアのセンスとこれらの3つの資質が、マイケルの人となりをよく表していると思う。 彼はよく謙虚さが行き過ぎて、自分の演奏が嫌いだとか、自分の全てのフレーズに飽きただとか、自分の全てのソロはただ同じことを繰り返しているみたいだとか不平を言っていた。でも私はそれには同情することはできずに、「そんな風な繰り返しをできたらしてみたいものだ。」と彼に言ったりしていた。私が彼を慰めるのは的外れで、彼はそんなことを言う唯一の人だった。 彼が繰り返りよく吹くので私たちの2人の間でちょっとしたジョークになっていたフレーズがあった。それは6つのグループから成る半音階の超高速フレーズで、私はそれを解析して自分のソロの中で使い始めて、横目で彼にウィンクしたんだ。そうすると彼のソロになると同じことをし返してきた。ある時、私が演奏している最中にそのジャズ・クラブにマイケルが入ってきたのを見つけたので、自分のソロの順番が回ってくるとディストーションを上げて、彼のほうを見つめていきなりそのフレーズを弾いてやったんだ。そうしたら彼は大笑いしていたよ。もし興味あるなら、私の書いた「Serious Jazz Practice Book」の半音階の部の135ページにそのフレーズを載せてある。 私は1977年の初頭にブレッカーブラザースバンドに加入した。凄いバンドだったよ。フランク・ザッパ・バンドから借りてきた信じられないような演奏をするテリー・ボジオがドラムス、売れっ子スタジオミュージシャンのニール・ジェイソンがベース、そして私が、マイケルとランディーのバックを固めていて、彼ら2人は当時入手できる全ての電子機器とサンの巨大なアンプを通してホーンを演奏していた。
この年の4月に行った1ヶ月のツアーでライブアルバム「Heavy Metal Bebop」のほとんどを録音したんだ。私たちは根性があって結束が固かった。それは素晴らしい経験で、私が加入したことのあるバンドの中では最高のエネルギーを持ったバンドだった。 その頃、マイケルとランディーはニューヨークに自分たちのナイト・クラブ、セブンス・アヴェニュー・サウスをオープンすることにしたんだ。ブリーカー・ストリートから2ブロック南のセブンス・アヴェニュー沿いにあって、そこはすぐにニューヨークのミュージシャンの完全で究極のたまり場となった。そこは演奏するのに素晴らしい場所で、私は店があった5−6年の間のうちで多分少なくとも6ヶ月くらいの夜はそこで演奏していたと思う。ブレッカー・ブラザーズだけじゃなくて、私自身のバンドやいろいろなバンドで演奏した。 マイケルが時間のあるときは、よく私のバンドでも演奏してくれた。ランディーもだ。マイケルはまた私の最初の2枚のソロ・アルバムで極端に安いお金で、素晴らしいソロを吹いてくれた。マイケルとランディは友人や仲間の新しいプロジェクトに彼らの時間と才能を気前よく貸してくれた。 しかしながらセブンス・アヴェニュー・サウスは演奏する以上にいて楽しいところだった。私は毎晩、夜中の1時半か2時頃に家を出てクラブに向かったものだ。街中のミュージシャン達がライブやレコーディングが終わった後に集まってきて、飲んだり、ビデオ・ゲームで遊んだりして朝の4時、時には5時や6時頃までたむろしていた。それは素晴らしく楽しいひと時だった。
もちろん、ずっとその場を支配していたのはドラッグだった。当時、ミュージック・シーンではほとんど皆がコケインをやっていた。私は77年にブレッカー・ブラザーズに加入した頃はそんなにハードなドラッグはやっていなかった。私はサンフランススコからやって来たヒッピー小僧で、マリファナをやっていたが、25ドルの1/4グラムのコケインで1週間は持つ程度だった。 私は決してヘロインに手をだしたことはなかったが、私のコケインの量はじわじわと増えて続けていって、私自身の人生がほとんどダメになってしまうところまで行ってしまった。 何故、こんなことを書いているかと言うと、マイケルは1981年にはきっぱりとドラッグをやめて、私の知る限りではそれ以降は一度たりとも逆戻りすることはなかったからなんだ。 彼は良心的に集会に出向いては、他の人々が同じように中毒から抜け出すのを助けるのに多大の努力を払っていた。彼の動機は純粋で、決して人を見下したりせず、ただ彼が見出した同じ救いを他の人たちにも見つけてほしいというだけだった。 私も彼に助けられた人々の一人だった。彼は私を94年に初めて集会に連れて行ってくれて、2001年にやっと私は更正施設にはいることができた。(そうなんだ、私のは結構きついケースだった。)彼は何度も電話をくれて、私がやり遂げれるように確かめてくれた。彼は思いやりがあった。そして私はずっとそれに感謝し続けるだろう。 彼が麻薬中毒から抜け出した後に、彼のソロ・キャリアが始まったのは偶然の一致ではない。その結果を見てご覧。11のグラミー賞受賞、世界のトップ・アーティスト達と競演した素晴らしい演奏などだ。2人の子供たちがいる良き家庭はいうまでもない。彼が自分の中の悪魔に打ち勝った後、クリアに集中して生産的な人生の最期の25年を送りことができたのは素晴らしいことだと思う。 その後、私は2度ブレッカー・ブラザーズのツアーに参加した。1980年に1ヶ月ヨーロッパに行って、モントルーとノース・シー・フェスティバルなどで演奏し、リッチー・モラレスがドラムに、マーク・グレイがキーボードで参加した。そして1994年にはデニス・チェンバースがドラム、ジェームス・ジナスがベースで日本に行った。これらのツアーの時のビデオはYouTubeにアップされているよ。 1998年の後半に私がカリフォルニアに戻ってきてからは、マイケルには2−3回しか会っていない。オークランドにあるジャズ・クラブ、ヨシズで彼に会ったときに、痩せた体型を維持できていいねと言ったところ(私は昔より数キロ体重が増えていた。)、「バリー、君はまだ髪の毛があるじゃないか。」と言い返された。 2005年2月に彼がUCバークリーでハービー・ハンコックと演奏したときに会ったのが最期になった。彼は私たちを招待してくれて、いつも通りの素晴らしい演奏をしていた。演奏の後、バック・ステージに彼を探しにいくと、楽器を片付けていて、老け込んで、少し弱っているように見えた。私たちは少し話しをして昔を懐かしんだ。彼は病院に入院していて、背骨がなぜか勝手に壊れていくので、それをセメントで固めるような手術をしたんだと言っていた。私は体を大切にねと言いながら心配になった。「健康でなければ何もできないよ。」と言って抱きしめてまた会おうと言った。 Barry Finnerty |
Translated by Masato Hashi |