マイケル・ブレッカーの軌跡
〜六つのターニングポイント〜
碧海 純

1949年3月29日ペンシルヴァニア州フィラデルフィア生まれ。父親は弁護士でピアノはセミプロ級、夕食後には家族でバンド演奏という音楽一家に育つ。学年で三つ上の兄ランディが小学校でトランペットを選んだところからマイケルの音楽人生が始まる。「僕と同じ楽器は嫌だったマイケルは残ったクラリネットを吹くしかなかったんだけど、結局好きになれずにやめてしまったね」(ランディ・ブレッカー)。 その後、高校時代には音楽よりも薬学に没頭した時期もあったが、今度はアルト・サックスを吹くようになり、ジョン・コルトレーンの『ライヴ・アット・バードランド』に衝撃を受けてからはテナーに転向する。
Score
Randy Brecker

「プロになる決心をしたのは19歳の時ニューヨークで」と本人がインタビューで語っているので、最初のターニングポイントは69年1月、NYで兄ランディの初リーダー作『スコア』の録音に参加した時、つまりマイケルの公式初レコーディングだが、じつはこの3年前にもエピソードがある。66年夏、ペンシルヴァニア州ニューホープで開催されたサマー・アート・キャンプのビッグ・バンドに当時17歳のマイケルが参加、自主制作ながら『Ramblerny 66』というアルバムも残されているので、厳密にはこちらが初レコーディングということになろうか。

70〜74年は兄とともに、伝説のセッション“ホワイト・エレファント”やドリームス、ハル・ギャルパー・ゲリラ・バンド、ジェイムズ・テイラー・バンド、ホレス・シルヴァー・クインテット、ビリー・コブハム・バンドなどに在籍、そして単身ではオノ・ヨーコのプラスティック・オノ・バンドにも加わり、74年8月には初来日も果たしている。ところでブレッカー兄弟の両親はミュージシャンになった息子達が大の自慢で、家には彼らの参加レコードが大量にあったそうだが、そんな親馬鹿ぶりをホレス・シルヴァーのインタビューから引用しよう。「最初はグループにランディしか在籍してなかったんだけど、彼らの両親がこう言ったんだ、“ランディがいいと思うなら、もう一人の息子はもっと凄いよ”ってね」。

The Brecker Brothers
 次のターニングポイントは74年後半といわれるブレッカー・ブラザーズの結成だが、これもマイケルのインタビューに興味深い事実がある。「コンセプトは兄の曲を演奏するバンド(ランディ・ブレッカーのリーダー作)なんだけど、レコード会社からはブレッカー兄弟名義でなくてはだめだといわれたので、じゃあそれで1枚だけ録音するかということになった。ところがアルバムの中の1曲『Sneakin’Up Behind You』が思いがけずヒットしたので、ブレッカー・ブラザーズというレギュラー・ユニットが存続することになったというわけ」。この頃はまだ作曲家マイケルも誕生しておらず、兄貴離れしていない感は否めない。  ブレッカー・ブラザーズとしてのデビュー(75年)を境に、マイケルのレコーディングセッションは飛躍的に増加し、特に78年と79年は年間50枚以上という驚異的な数字。ジャズ、クロスオーバー/フュージョンのみならず、ポップス、ロック、ソウルでの歌伴も多く、短い小節数の中での名演の数々は“1分芸術”と評されるほど。しかし、ジャンルを越えたあらゆるセッションに引っぱりだこの一方で“器用貧乏”“ハートとエモーションがない”“やりたい音楽が見えない”などの悪評も当時は多かった。相手がチェット・ベイカーだろうがポール・サイモンだろうがマイケルはマイケルなのだが、リーダー作がない上に活動の場が広すぎて全体像が把握しにくかったのかもしれない。そんな中、三つ目のターニングポイントが訪れる。

80/81
Pat Metheny
 1980年5月、場所はノルウェーのオスロ。パット・メセニー(g)のニュー・アルバムのレコーディングに呼ばれたのはマイケル・ブレッカー、デューイ・レッドマン(ts)、チャーリー・ヘイデン(b)、ジャック・ディジョネット(ds)。マイケルにとって、前年のジョニ・ミッチェルのツアーで共演したパット以外は初めてのメンバーばかり。このレコーディングは『80/81』という2枚組アルバムとなり、パットにとってもジャズ史上でも重要な作品となったが、特にマイケルにとっては“彼の音楽観を変えた”とまで言われる大きな転機である。実際、この7年後にリリースされる彼の初リーダー作はデューイ以外の3人が全員参加しているし、その後も常連となっている。ただし、マイケルの受けた衝撃が、楽曲や共演者へのカルチャー・ショックだけでなく、自分の演奏レベルが他のメンバーに追いついていないことへの落ち込みもあったのではないかという見方もあって興味深い。このメンバーによるツアーも行なわれており、ディジョネットの証言によると、特にデューイから多くのことを学んだようだ。  翌年の81年にはブレッカー・ブラザーズは6枚目のアルバムをリリース後、自然消滅。

City Scape
Claus Ogerman/Michael Brecker
この頃からマイケルのセッション数もなぜか減り、特に82年は顕著に少ない。四つ目のターニングポイント、ファンの間では有名なノドの不調説である。結局のところ、どんな病気だったのか(マイケルの奏法によって気管が伸びてしまう症状らしく、当時は膨らみ過ぎを防止するためノドに黒いバンドを巻いていた)、手術はしたのか、どうやって克服したのか、どうもいまひとつはっきりしないのだが、再起不能で引退も覚悟したといわれるマイケルが、もう今までのように吹けないかもしれないという想いを込めてレコーディングしたのではないかと思われるのがクラウス・オガーマンとの『シティスケイプ』。あちこちで力説して恐縮だが、筆者にとってはこのアルバムが無人島に持っていく1枚のマイケルである。

Michael Brecker
 83年以降はレコーディングの数もまた増え始め、マイケルも復活。そして、87年が五つ目のターニングポイント。初レコーディングから20年、この時点で400枚以上のアルバムに登場しながら1枚のソロアルバムもなかった男の初リーダー作の登場である。前述のように『80/81』のメンバー3人を呼び寄せ、憧れのコルトレーンゆかりのインパルス・レーベルからのリリース。シンプルに自分の名前を冠したアルバムで示されたコンセプト・音世界は、先日リリースされた彼の9枚目の、そして遺作となってしまった『Pilgrimage(聖地への旅)』まで一貫している。ちなみにマイケルが“ジャズ・テナーの巨人”の名声を確立したのは96年の『テイルズ・フロム・ザ・ハドソン』の頃からで、初リーダー作には相変わらず“ポリシーのないミュージシャンのバーゲン音楽”などという誹謗もあったこともお伝えしておく。

Concert In The Park
Paul Simon
名実ともにソロ・アーティストとなった後も毎年2〜30枚のセッションに参加。しかし、82年同様に参加アルバム数が少ないのが91年〜92年。じつはこの時期マイケルはポール・サイモン・バンドの一員となり世界ツアーに同行している。スティーヴ・ガッド、リチャード・ティーらのNY勢にブラジルやアフリカのミュージシャンも加わった大所帯での音楽経験がマイケルのエスニック指向に多大な影響を及ぼしたことは、その後の再結成ブレッカーブラザーズでの『ソング・フォー・バリー』や『アフリカン・スカイズ』などでも明らかである。ということで最後の(六つ目の)ターニングポイントとしたい。

 ターニングポイントとは別にマイケル・サウンドの核を担ったドラマーたちにもふれておきたい。マイケルが共演者で重要視していたのがドラマーなのはインタビューからもうかがい知れるが、彼自身もドラムの名手で、YouTube上ではついにドラミングの映像も登場した。ここでは彼のキャリアを3人のリズム・パートナーで大別したい。

まず1970年代、これはもうスティーヴ・ガッドをおいて他にはない。ホワイト・エレファントに始まり、プラスティック・オノ・バンド、ブレッカー・ブラザーズ、NYオールスターズ、ステップス、そして100枚以上のセッション。まだレイドバックする前のバリバリ全開のガッドとマイケルによるデジタルなインタープレイは本当に凄かった。

Pilgrimage
Michael Brecker
続く80年代はピ−ター・アースキンを挙げたい。80年3月NYでの渡辺香津美『TO CHI KA』録音が初共演だが、当初はアースキンの参加予定はなく、ウェザー・リポートの公演を見た香津美が急遽変更したことで邂逅となった。ジャコ・パストリアス、ステップス・アヘッドなど約40枚のアルバムで共演している。

そして90年代以降はやはりジャック・ディジョネットであろう。初共演は80年5月の『80/81』だが、87年の初リーダー作から遺作まで9枚中5枚に参加、マイケルの音世界に大きく貢献した。

以上3人の他にも『ヘヴィ・メタル・ビバップ』の陰の主役テリー・ボジオ、再結成ブレッカー・ブラザーズ以降何度も共演しているデニス・チェンバースも捨て難い。ちなみにマイケルといえばコルトレーン、コルトレーンといえばエルヴィン・ジョーンズだが、マイケルとエルヴィンの共演は99年の『タイム・イズ・オブ・ジ・エッセンス』とかなり遅く、しかも同年のエルヴィンのライブへの客演も含め2枚しか残されていないのは意外である。

2007年1月13日、永眠。享年57歳。本人はもうこの世にいないが、800枚以上におよぶ膨大な参加作品が残されている。今からでも遅くはない、あなたもマイケル探求の旅に出てみてはいかかだろうか?

(雑誌「ADLIB」2007年6月号に掲載された原稿に加筆、修正しました)

碧海 純
1961年東京生れTBSラジオ勤務。
マイケル・ブレッカーの世界的コレクターで、800枚近いマイケルの参加作の大半を所有しコンプリーターを目指している。2000年のジャズ批評104号、2007年のジャズライフ特集号掲載のディスコグラフィー編纂の中心的存在。スティーヴ・ガッド参加作品の蒐集家でもある。




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