プリズムが結成された1975年とはどういう年だったのだろうか。 この年の1月にはマイルス・デイビスのいわゆる電化バンドが来日し、ライブ盤として「Agarta」と「Pangea」を残している。この年を最後に1981年まで長期休養に入ってしまうマイルスの70年代バンドは電気楽器の多用、16ビート(というよりポリリズムというべきか)の導入という意味でクロスオーバー、フュージョンの祖先とも言えるが、ギターの役割はあくまでもリズム楽器としてだった。 一方、日本国内にはまだクロスオーバー・フュージョンというような明確なフォーマットを打ち出しているミュージシャンはまだでてきていなかった。 渡辺貞夫がリー・リトナーを「My Dear Life」で起用してフュージョン化したのが1977年、T-Squareの前身であるThe Squareは1977年の結成で、デビューアルバム「Lucky Summer Lady」のリリースは1978年まで待たなければならない。 日本のギター・フュージョンの代表格ともいえるカシオペアはもう少し遅れて、結成が1977年、ファースト・アルバムのリリースは1979年である。 海外に目をやると前述のマイルス・バンド出身のジョー・ザヴィヌルとウェイン・ショーターがウェザー・リポートを既に1970年に結成していたが、キーボードとサックス中心のバンドでギタリストのいない編成だった。 またブレッカー・ブラザーズは1975年のデビューだがご存知の通りホーン主体のバンドだった。 ギター・フュージョンという視点からみるとリーリトナーのデビューが1976年、「Room 335」の大ヒットを含むラリー・カールトンの「夜の彷徨」は1978年のリリースと若干、後になる。 ロック系クロスオーバーの名作で和田アキラも当サイトのインタビューでその影響を語っているジェフ・ベックのギターインストの金字塔的アルバム「Blow By Blow」(日本題は「ギター殺人者の凱旋」などという凄いタイトルがつけられていた。)がちょうど1975年にリリースされている。 それ以前のギター・フュージョン作品というと1972年のジョン・マクラフリン率いるマハビシュヌ・オーケストラの「火の鳥(Bird Of Fire)」くらいだろうか。 ジェフ・ベック自身もその「Blow By Blow」に続く76年の作品「Wired」ではマハビシュヌ・オーケストラに在籍していたキーボード奏者のヤン・ハマーを起用しているあたりマハビシュヌ・オーケストラを意識していたのではないだろうか。 ウェザーのジョー・ザヴィヌル同様、マイルス・デイビス・バンド出身のキーボード奏者のチック・コリアが率いるリターン・トゥ・フォーエバーは1974年に超早弾きギタリストのアル・ディメオラを加えてギターサウンドを重視しはじめていた。 また当時プログレッシブ・ロックという位置付けだったバンド、ソフト・マシーンも1975年に高速ギタリストアラン・ホールズワースを迎えて「Bundles」というフュージョン色の強いアルバムをリリースしている。 こうして見ていくとこの1975年という年は世界的にはギターフュージョンが一気に広まろうとしていて、日本国内ではまだフュージョン夜明け前だったことがわかる。 そんな時代にプリズムは結成され、2年間のライブ活動の後、1977年にデビューアルバムをリリースした。このアルバムは世界的に盛り上がりつつあったクロスオーバー・フュージョンのエッセンスを取り入れただけでなく、独自のスタイルで衝撃的に登場し、日本におけるギター・フュージョンの世界を確立したものだった。当時のギター少年達はこぞってこのアルバムをコピーしていたものだった。(私も昔、学生バンドで「Cycling」をやったことあります。)きっと今、現役のプロのギタリストでも和田アキラに憧れてギターを始めたという人も少なからずいるのではないだろうか。(橋 雅人) |
初期ギター・フュージョンの代表的アルバム
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