川崎 燎 インタビュー
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セリエJ(以下SJ) 川崎燎さんがギターを始められたのはいつごろですか。またそのきっかけは何です か。 川崎 燎 (以下RYO) 最初に弦楽器に触れたのはヴァイオリンで幼少(小学校以前)の頃で母が与えてくれた様に覚えています。同時に声楽を学んだのでその当時すでに読符力(コールユー・ブンゲン)を養いました。小学校に入ってからは天文(自作の望遠鏡等も含めて)と電気学(主に鉱石ラジオ、ゲルマニウムラジオ製作から徐々に真空管のアンプ作り、スピーカー制作)そして戦闘機や軍艦の模型作り、ラジ・コン等に熱中していました。音楽はどちらかと言うと自作のオーデイオ・システムの成果を問う為の素材として色々な分野の音楽を聞き始めました。ラジオでは駐留軍のFEN局が一番好きで当時の様々な西洋音楽を好んで聞いていました。父母共に戦前は外国暮らしの人だったので彼らの友人も外人が多く父も英語放送、英字新聞を主に聞いたり読んだりする様な環境でしたので自然と西洋音楽、映画等に触れる機会も多かった訳です。 小学校5年生くらいの時に友人のお兄さんがギターを持っていてそこで初めてギターに触れました。そのお兄さんから基本的なコード進行を当時はやりのポール・アンカやニール・セダカのヒツト曲等の伴奏符を見ながらそこを訪ずれる度に覚え始めました。でも、まだギターを弾くには手が小さくてそこにはウクレレもあったのでウクレレを弾き始めました。確か小学校6年生後期に自分のウクレレを手に入れて練習し始めました。同時にハワイアンやラテンの伴奏符を見ながらコードを学んで中学1―2年の頃にはウクレレをマスターしていました。当時テレビで"ハワイアン・アイ"と言うアメリカ・ドラマがあって、とてもウクレレの上手いハワイ人が出ていて良く見ていたものです。同時にメロデイーを弾く事にも興味を持って禁じられた遊びなどをウクレレで弾いて学校で見せびらかしていたのを覚えています。又、ウクレレで限界はあったもののメロデイーとコードを同時に弾く工夫等もやりはじめました。アドリブとか作曲行為は比較的天性の様で、敢えて曲を知らなくても楽器を手にすれば何かを思い付きで弾いたりする事が大好きでした。同時期にフルートにも興味を持ち初心者向けのフルートを手に入れて毎日の様に吹いていました。オーデイオ・システム作りの熱も本格的になって週末毎に秋葉原に通って部品をかき集めていました。中学一年の時に初めてNHK・FMが開局してそれが聞きたくて自作でFM・チューナーを作りました。同時に色々なレコードを買い始めて主な物はクラシックでしたが、レス・ポールとメリー・フォードのワイキキの浜辺とかナットキング・コールのキサス・キサス、マントヴァニーやパーシー・フェイスのムード・ミュージツクや映画音楽なども好んで聞いていたのを覚えています。渋谷の家のそばに古レコード屋があって興味本意で買った初めてのジャズ・レコードはアート・ブレーキーとジャズ・メッセンジャーズの25センチ盤ライヴ・アット・モンマルトで例の"モーニン"が入っているやつでしたがその当時では何だか良く分からなくて余り面白くなかったのを覚えています。ちなみにこれは余談になりますが、ニューヨークに渡った翌年1974年の初冬に一晩だけ"モーニン"の作曲者のピアニスト、ボビー・テイモンズと私と二人だけのピアノ・ギターのデユオの仕事をトンプソン・ストリートとウエスト・サード・ストリートの角にあったバーバラスというレストラン・クラブで演る機会に恵まれました。これはボビーが亡くなる直前の出来事で彼はかなり弱々しくてすぐに咳込んだりしていましたがさすがに出てくるピアノの音はまさにボビー独特の物で本当に素晴らしい経験でした。一月後位に彼の死去の報を聞いた次第です。 この古レコード屋であともう一枚ジャズのレコードを手に入れましたそれは、テナー奏者ハロルド・ランドの"ウエスト・コースト・ブルース"と言うアルバムでタイトル曲の作者ギターのウェス・モンゴメリーとかトランペツトのジョー・ゴードン、ベースのサム・ジョーンズなどが参加しているアルバムでこれは中々印象に残っています。 中学を卒業する年の誕生日に母が最初のギター(ナイロン・ストリング)を買ってくれました。ウクレレの知識を序々にギターにアダプトしてコードを覚え直したりするのが最初の作業でしたが大した時間はかかりませんでした。高校も渋谷にあり、その頃から学校をサボっては道玄坂にあった百軒店界隈のジャズ喫茶店に通い始めましたがそもそもの動機はジャズではなく煙草が吸えたり雰意気がカツコ良い所に魅せられて長時間過ごす様になりそれに伴って色々なジャズの名盤に巡り合いました。一枚一枚かかるレコードのタイトルや演奏者を暗記して次第にソロを少し聞くだけで奏者の名前や曲のタイトルが当てられる所まで耳が上達してきました。そしてある日、"ありんこ"という小さなジャズ喫茶でジャズ・ギター奏者ケニー・バレルの新譜の"ミッドナイト・ブルー"というレコードを聞いて彼の弾くジャズ・ギターのクールなサウンドに完全に魅せられてしまいジャズ・ギターの世界に身を投じる最初のきつかけとなりました。ギターもテスコというメーカーのエレクトリツク・ギターを手に入れて高校の軽音楽部に入り演奏活動を始め一応音楽とギターの基礎は既にあったので3ヶ月後には卒業生の先輩の友達等のプロのバンドで仕事をし始めました。17歳位の時になります。 |
SJ
他の楽器奏者・作曲者 :ジョン・コルトレーン、マイルス・デイヴィス、ハービー・ハンコツク、チツク・コリア、ウエイン・ショーター、ウィントン・ケリー、トニー・ウイリアムス、エルヴィン・ジョーンズ、ギル・エヴァンス、カルロス・ジョビム、ラヴィー・シャンカール、ラヴェル、ドビューシー、ストラヴィンスキー、バツハ
SJ
大学在学中には赤坂にあったTBSの中にあった会社でアルバイトをしていて毎日TBSのライブラリーからありとあらゆるジャズ・ギターのレコードを借りて録音していました。恐らく当時存在していた全てのジャズ・ギターのレコードを録音したのではないかと思います。一日5枚程度ずつで一年位続けていました。私のジャズ・レコード・コレクションも日本を離れる当時は2000枚を超えていました。
SJ
英語も自然と身についたし渡米後28年になりますが市民権もとれて何か無国籍のアメリカ人といった様な変な感じで最近はニューヨークも飽きて物貨の非常に安い北欧のエストニアのタリンとニューヨークの両方を基点にして活動しています。タリンは他のヨーロツパの国々にも近くて非常に便利な拠点ですが日本人はまだ全国に10人もいない日本にとっては比較的未知国かも知れませんが今後の発展が期待出来る地理条件がありますしお伽の国の様な町並みや若い女性が大変美しくて良いインスピレーションになります。最近は、ドイツ、イギリス、フランス、フィンランド、エストニア等での演奏活動がアメリカよりも多い感じです。 まあ、後、印象に残っているのは、1980年代の中半にコモドア64と言う当時ヒツトしたコンピューターの為に思い付きで書いた3つの音楽ソフトが何と全米でヒツトしてしまい皮肉な事にそれまでにジャズを通して10年間位の間に稼いだ金の10倍位の収入が僅か二年位の間に得られた事がありました。
SJ
1974―1977の間はギル・エヴァンス・オーケストラ、エルヴィン・ジョーンズ・グループ、チコ・ハミルトン・バンドの3つのバンドに同時に在籍していてほぼ年中無休で世界中の演奏ツアーに参加していて素晴らしい経験、思い出となりました。ギルのバンドではデイヴィド・サンボーン、ジョン・アバーコロンビー、ハワード・ジョンソン、ルー・ソロフ、ハンニバル・マーヴィン・ピーターソン、トニー・ウイリアムス、ジャコ・パストリアス等と共演したりレコーデイングする機会が持て、エルヴィンのバンドでは当時のレギュラー・メンバー以外のゲスト、サド・ジョーンズ、フランク・フォスター、デイヴ・リーブマン、ステイーヴ・グロスマン、チコ・フリーマン、ジミー・ギャリソン、トミー・フラナガン等新旧入り交じった才能豊かなミュージシャンと共演出来たし、チコのバンドではステーヴ・トウーレ、アーサー・ブライス、アーニー・ローレンス等とアメリカ全国をツアーしていました。面白い事にどのバンドもピアノ・レス(ギルはピアノを弾きますが殆ど導入部分だけ弾く感じでした)でギターがメインの和声楽器だったのでギターリストとして勉強するのにどのバンドもとても良い土壌でした。 甚だ残念だったのは、トニー・ウイリアムスのライフ・タイムの3代目ギターリストとして(初代:マクラフリン、二代目:テツド・ダンパー)当時サンタナのベーシストであったダグ・ローチとトリオでトニーのハーレムにあったロフトで丸一月間もリハーサルをしたのですがある日突然トニーがヨーロツパに渡ったきりになって一年以上もニューヨークに戻らなくなってしまった事がありました。一応、ツアー・スケジュールの話などもすでに出ていたので私とベースのダグは暫くの間途方にくれていました。せっかくリハーサルしたバンドが人前で演奏する機会が持てなかったのは今でも残念です。せめてテープでも録れていれば記念くらいにはなったのですが..そのトニーも彼の死去の直前のパーフォーマンスをマンハツタンの私の家のすぐ側にあるバードランドで2年程前に見る事が出来ました。とても元気そうでまさかそんなにすぐに行ってしまうとは信じられませんでした。やはり一諸に演奏したり世話になったりした歴史的なジャズ・ミュージシャン達が次々と他界して行く時代を過ごしているなという実感があります。逆に言えばやはりジャズはもうクラシック音楽になってしまったのかもしれません。そこで私の様な中途半端な世代でしかも日本生まれのジャズ・ミュージシャンの今後の道を見出すのが私の現在の課題かもしれません。 若いジャズ奏者は沢山いますがやはり歴史的な巨匠達との演奏経験無しでレコード、採譜、練習とか音楽学校だけを基に果たして真のジャズが演奏出来るかどうかはかなり疑問です。ジャズの原点は会話とフィーリングですのでこの会話のし方とフィーリングをハーモニー、リズム、フレーズ等を通してまず学ばなければならないからです、でもそれを学ぶ為にはその方法をマスターした人達と共演して会得するしか術がないからです。
SJ
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私のレーベルや活動は常に私のサイト http://www.satellitesrecords.com にアップ・デートしてありますし、私自身の日本語のバイオはhttp://www.satellitesrecords.com/artists/kawasakijp.html にありますのでこのインタヴューの補足としてご利用下さい。 それでは、近いうちにお会い出来る事を楽しみにしています。 (2001年6月7日、タリン、エストニアにて、)
SJ
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以前、アルバムのライナーノーツ等で彼本人の文章に触れたことがありましたが、非常に知性ある大人の文章を書かれる人だと思っていました。今回のインタヴューにおいても、誠実な人柄が偲ばれる中身の濃い返答をいただきました。感謝、感謝です。
私など全く知らなかった、彼の黎明期の逸話やジャズ巨匠との接点等の話題は、彼の軌跡を知る上で大変貴重な資料ともなるのではないでしょうか。 またファンにとって嬉しいのは、近いうちにいよいよニューアルバムの制作にとりかかるというニュースです。それも今回、アコースティックソロ作ということで、「Here There & Everywhere」「My Reverie」に続く、シリーズ3弾目ということになります。早ければ年内にはリリースでしょうか。楽しみに待ってます。 川崎燎さんといえば70年代後半から80年代前半にかけては、増尾好秋、渡辺香津美両氏に加え「日本人“若手”ジャズギターリスト三羽烏」などと称されたりしましたが、前ニ者に比べやや玄人好みのする雰囲気をもっていました。今でもその雰囲気は残っているものの、かといって彼のやる音楽が非常に難解でとっつきにくいものかといえば、決してそのようなことはなく、特に近年の作品はどれも(彼の云うように)ヒューマンなぬくもり をもった、誰か聴いても親しまれる内容のものばかりです。今回のインタヴューを機に是非多くのリスナーに彼の音楽を体感していただくことができれば、ファンとして嬉しい限りです。(セリエJ) |
「Sweet Life」ワン・ヴォイス(VACV-3004)96/98(再発盤)
〜あくまでcoolに、あくまでsmoothに!
・・・私が川崎燎さんを聴くきっかけとなった1枚で、何よりギターの音に艶があり、リラックスした中にもさりげなくテンションを織りまぜた、バランスの見事なプレイを聴くことが出来ます。とりわけ1曲目のタイトル曲から2曲目「Chapel Of Love」への流れは
絶妙で、アルバム全体のカラーを決定づけています。 |