川崎 燎 インタビュー

日本を代表するギタリストとしてニューヨークを拠点に30年近くにも渡って活動を続ける川崎燎。渡米してすぐにギル・エヴァンス・オーケストラの名作「Plays the Music of Jimi Hendrix」のレコーディングに参加するなど、ニューヨークのジャズシーンの最先端で活躍。その後もコンピューター・プログラムを早くから手がけ、ダンス系、スムース系、アコースティック系など幅広い音楽を創り続けており、30枚ものリーダー・アルバムを発表してきている。

近年はその拠点をエストニアに移しつつあり、ヨーロッパ,アメリカ、日本とワールドワイドな活動を続けている。今回はエストニアに滞在している氏よりたっぷりと話を聞かせてもらうことができた。


セリエJ(以下SJ)
川崎燎さんがギターを始められたのはいつごろですか。またそのきっかけは何です か。

川崎 燎 (以下RYO)
最初に弦楽器に触れたのはヴァイオリンで幼少(小学校以前)の頃で母が与えてくれた様に覚えています。同時に声楽を学んだのでその当時すでに読符力(コールユー・ブンゲン)を養いました。小学校に入ってからは天文(自作の望遠鏡等も含めて)と電気学(主に鉱石ラジオ、ゲルマニウムラジオ製作から徐々に真空管のアンプ作り、スピーカー制作)そして戦闘機や軍艦の模型作り、ラジ・コン等に熱中していました。音楽はどちらかと言うと自作のオーデイオ・システムの成果を問う為の素材として色々な分野の音楽を聞き始めました。ラジオでは駐留軍のFEN局が一番好きで当時の様々な西洋音楽を好んで聞いていました。父母共に戦前は外国暮らしの人だったので彼らの友人も外人が多く父も英語放送、英字新聞を主に聞いたり読んだりする様な環境でしたので自然と西洋音楽、映画等に触れる機会も多かった訳です。

小学校5年生くらいの時に友人のお兄さんがギターを持っていてそこで初めてギターに触れました。そのお兄さんから基本的なコード進行を当時はやりのポール・アンカやニール・セダカのヒツト曲等の伴奏符を見ながらそこを訪ずれる度に覚え始めました。でも、まだギターを弾くには手が小さくてそこにはウクレレもあったのでウクレレを弾き始めました。確か小学校6年生後期に自分のウクレレを手に入れて練習し始めました。同時にハワイアンやラテンの伴奏符を見ながらコードを学んで中学1―2年の頃にはウクレレをマスターしていました。当時テレビで"ハワイアン・アイ"と言うアメリカ・ドラマがあって、とてもウクレレの上手いハワイ人が出ていて良く見ていたものです。同時にメロデイーを弾く事にも興味を持って禁じられた遊びなどをウクレレで弾いて学校で見せびらかしていたのを覚えています。又、ウクレレで限界はあったもののメロデイーとコードを同時に弾く工夫等もやりはじめました。アドリブとか作曲行為は比較的天性の様で、敢えて曲を知らなくても楽器を手にすれば何かを思い付きで弾いたりする事が大好きでした。同時期にフルートにも興味を持ち初心者向けのフルートを手に入れて毎日の様に吹いていました。オーデイオ・システム作りの熱も本格的になって週末毎に秋葉原に通って部品をかき集めていました。中学一年の時に初めてNHK・FMが開局してそれが聞きたくて自作でFM・チューナーを作りました。同時に色々なレコードを買い始めて主な物はクラシックでしたが、レス・ポールとメリー・フォードのワイキキの浜辺とかナットキング・コールのキサス・キサス、マントヴァニーやパーシー・フェイスのムード・ミュージツクや映画音楽なども好んで聞いていたのを覚えています。渋谷の家のそばに古レコード屋があって興味本意で買った初めてのジャズ・レコードはアート・ブレーキーとジャズ・メッセンジャーズの25センチ盤ライヴ・アット・モンマルトで例の"モーニン"が入っているやつでしたがその当時では何だか良く分からなくて余り面白くなかったのを覚えています。ちなみにこれは余談になりますが、ニューヨークに渡った翌年1974年の初冬に一晩だけ"モーニン"の作曲者のピアニスト、ボビー・テイモンズと私と二人だけのピアノ・ギターのデユオの仕事をトンプソン・ストリートとウエスト・サード・ストリートの角にあったバーバラスというレストラン・クラブで演る機会に恵まれました。これはボビーが亡くなる直前の出来事で彼はかなり弱々しくてすぐに咳込んだりしていましたがさすがに出てくるピアノの音はまさにボビー独特の物で本当に素晴らしい経験でした。一月後位に彼の死去の報を聞いた次第です。

この古レコード屋であともう一枚ジャズのレコードを手に入れましたそれは、テナー奏者ハロルド・ランドの"ウエスト・コースト・ブルース"と言うアルバムでタイトル曲の作者ギターのウェス・モンゴメリーとかトランペツトのジョー・ゴードン、ベースのサム・ジョーンズなどが参加しているアルバムでこれは中々印象に残っています。
私よりも10年程年長の従兄弟がいて、彼も電子工学が専門で色々学ぶために訪れていましたが彼がクラシツク・ギターの中々の名手で私の中学時代には度々彼の披露してくれた演奏に魅せられていましたがギターに関しては彼の演奏を見ていただけですがとても良い刺激になり後々の私のクラシツク・ギターへの情熱の発端となったと思います。当時上映されたクリフ・リチャードとシャドウズの映画がきつかけでギター弾きのカッコ良さに魅せられで将来ギター弾きになりたいと思ったのを覚えています。

中学を卒業する年の誕生日に母が最初のギター(ナイロン・ストリング)を買ってくれました。ウクレレの知識を序々にギターにアダプトしてコードを覚え直したりするのが最初の作業でしたが大した時間はかかりませんでした。高校も渋谷にあり、その頃から学校をサボっては道玄坂にあった百軒店界隈のジャズ喫茶店に通い始めましたがそもそもの動機はジャズではなく煙草が吸えたり雰意気がカツコ良い所に魅せられて長時間過ごす様になりそれに伴って色々なジャズの名盤に巡り合いました。一枚一枚かかるレコードのタイトルや演奏者を暗記して次第にソロを少し聞くだけで奏者の名前や曲のタイトルが当てられる所まで耳が上達してきました。そしてある日、"ありんこ"という小さなジャズ喫茶でジャズ・ギター奏者ケニー・バレルの新譜の"ミッドナイト・ブルー"というレコードを聞いて彼の弾くジャズ・ギターのクールなサウンドに完全に魅せられてしまいジャズ・ギターの世界に身を投じる最初のきつかけとなりました。ギターもテスコというメーカーのエレクトリツク・ギターを手に入れて高校の軽音楽部に入り演奏活動を始め一応音楽とギターの基礎は既にあったので3ヶ月後には卒業生の先輩の友達等のプロのバンドで仕事をし始めました。17歳位の時になります。
主な仕事場は神楽坂、池袋、新宿等にあるストリップ・キャバレーで本番のストリップやどさ回りの歌手の歌伴などの前にお客さんが殆どいないうちに毎日の様にバンドでジャズの曲をジャムっていました。その辺までが私のギターとジャズとの巡り合いになります。その後は、主に銀座の"銀パリ"とか新宿の"タロー"等のライヴ・ハウスに入り浸りになりギターの高柳昌幸氏、小西徹氏、杉本喜代志氏等の演奏を毎日の様に機会がある度に一番前の席に陣取って見にいっていました。何よりも、彼らの使っているギブソンのES175にあこがれていつか自分も買える身分になりたいと思っていました。初めてのアルバムは21歳の時に日本のポリドールに"イージー・リスニング・ジャズ・ギター"という題名の物を録音しました。

SJ
影響を受けたギターリスト、またギター以外のミュージシャンもいれば挙げて下さ い。

RYO
ギターリスト:ケニー・バレル、ウェス・モンゴメリー、グラント・グリーン、ジム・ホール、チャーリー・バード、ジョージ・ベンソン、ジャンゴ・ラインハルト、ガボール・ザーボ、アンドレ・セゴヴィア、ジョン・ウイリムス、パコ・デルシア、ジョン・マクラフィリン、ジヨニー・スミス、ジミー・ヘンドリックス、マイク・ブルームフィールド、サンタナ

他の楽器奏者・作曲者 :ジョン・コルトレーン、マイルス・デイヴィス、ハービー・ハンコツク、チツク・コリア、ウエイン・ショーター、ウィントン・ケリー、トニー・ウイリアムス、エルヴィン・ジョーンズ、ギル・エヴァンス、カルロス・ジョビム、ラヴィー・シャンカール、ラヴェル、ドビューシー、ストラヴィンスキー、バツハ

SJ
特に影響を受けた作品や愛聴盤があれば教えて下さい。

RYO
Wynton Kelly "Whisper not"
Kenny Burrel "Midnight Blue"
Wes Montgomery "Incredible Jazz Guitar"
Bill Evans "Under Current"
Miles Davis "Jack Johnson", "Bitches Brew" "In a silent way"
Tony Williams "Emergency"
John McLaughlin "Extrapolation", "My Goal's beyond" "Mahavishnu Orchestra"
Tommy Flanagan "Overseas"
John Coltrane "Giant Steps" "John Coltrane & Johny Hartman" "Afro Blue"
Chick Corea "Now He Sings, Now He Sobs" "PIANO IMPROVISATIONS VOL. 1" "Friends"
Herbie Hancock "Speak Like a Child", "Man-Child"
Paul Desmond "Take Ten"
Wayne Shorter "Super Nova"
Gil Evans-Miles Davis "Sketches of Spain"
Jimi Hendrix "Experience"
Mike Bloomfield "Super Session"
Carlos Santana "Abraxas"
Jeff Beck "Blow by Blow"
Billy Cobham "Spectrum"
Chico Hamilton "The Dealer"
Miloslav Vitous "Infinite Search"
Larry Coryell "Spaces"
Gary Burton "Duster"
Charles Loyd "Forest Flower"
Weather Report "830" "Mr.Gone" "Heavy Weather" "Black Market"
Jan Hammer "The First Seven Days"
Jaco Pastorius "Jaco Pastorius"
Tommy Bolin "Private Eyes"
Jim Hall "Alone Together"
Paco De Lucia "Entre dos aguas"
Andre Segovia "Chacone"
John Williams "Concerto De Aranjuez"
その他限りなくありますが、きりがないのでこの辺で..

大学在学中には赤坂にあったTBSの中にあった会社でアルバイトをしていて毎日TBSのライブラリーからありとあらゆるジャズ・ギターのレコードを借りて録音していました。恐らく当時存在していた全てのジャズ・ギターのレコードを録音したのではないかと思います。一日5枚程度ずつで一年位続けていました。私のジャズ・レコード・コレクションも日本を離れる当時は2000枚を超えていました。

SJ
ニューヨーク生活で苦労された点はありますか。

RYO
ジャズ・アーチストの道を選ぶと言う事はよほど運が良くない限りお金とは一番縁の遠い職だと予め予測していましたので兎に角、レコード制作、演奏及び作曲活動をし続けていける環境を求めた放浪生活とも言えると思います。この様な作業をするのには別に高価な邸宅や車が必要である訳でもないし、小さなアパートの一室でも器材さえ揃っていれば出来る訳ですから、ある意味では楽を求めた事がないので苦労知らずと言えるかも知れません。ニューヨークで持っていた高価なギブソンやマーチンのギターを家賃が払えずに二束三文で売った事も数回ありましたし電話代が払えなくて止められた事もありますがが別に苦労とは思えませんでした。

英語も自然と身についたし渡米後28年になりますが市民権もとれて何か無国籍のアメリカ人といった様な変な感じで最近はニューヨークも飽きて物貨の非常に安い北欧のエストニアのタリンとニューヨークの両方を基点にして活動しています。タリンは他のヨーロツパの国々にも近くて非常に便利な拠点ですが日本人はまだ全国に10人もいない日本にとっては比較的未知国かも知れませんが今後の発展が期待出来る地理条件がありますしお伽の国の様な町並みや若い女性が大変美しくて良いインスピレーションになります。最近は、ドイツ、イギリス、フランス、フィンランド、エストニア等での演奏活動がアメリカよりも多い感じです。

まあ、後、印象に残っているのは、1980年代の中半にコモドア64と言う当時ヒツトしたコンピューターの為に思い付きで書いた3つの音楽ソフトが何と全米でヒツトしてしまい皮肉な事にそれまでにジャズを通して10年間位の間に稼いだ金の10倍位の収入が僅か二年位の間に得られた事がありました。

SJ
ご自身の音楽人生でとりわけ印象深い出来事がありましたら教えて下さい。

RYO
アメリカに渡ってからの最初の六年間位はジャズ・ミュージシャンとして日本から渡って来た異邦人といった観点から見れば信じられないくらい全てトントン拍子で進んで、自分でも何故そうなったのか皆目見当がつきません。日本でレコードを通して愛聴していた様なアーチストやプロジェクトと共演したりそれらに参加する事が出来てどれが一番印象深いかと言われてもかなり難しい感です。まあ、全てはギル・エヴァンスとの出会いが一番大きなきつかけかも知れません。アメリカの永住権までサポートしてくれたのですから。

1974―1977の間はギル・エヴァンス・オーケストラ、エルヴィン・ジョーンズ・グループ、チコ・ハミルトン・バンドの3つのバンドに同時に在籍していてほぼ年中無休で世界中の演奏ツアーに参加していて素晴らしい経験、思い出となりました。ギルのバンドではデイヴィド・サンボーン、ジョン・アバーコロンビー、ハワード・ジョンソン、ルー・ソロフ、ハンニバル・マーヴィン・ピーターソン、トニー・ウイリアムス、ジャコ・パストリアス等と共演したりレコーデイングする機会が持て、エルヴィンのバンドでは当時のレギュラー・メンバー以外のゲスト、サド・ジョーンズ、フランク・フォスター、デイヴ・リーブマン、ステイーヴ・グロスマン、チコ・フリーマン、ジミー・ギャリソン、トミー・フラナガン等新旧入り交じった才能豊かなミュージシャンと共演出来たし、チコのバンドではステーヴ・トウーレ、アーサー・ブライス、アーニー・ローレンス等とアメリカ全国をツアーしていました。面白い事にどのバンドもピアノ・レス(ギルはピアノを弾きますが殆ど導入部分だけ弾く感じでした)でギターがメインの和声楽器だったのでギターリストとして勉強するのにどのバンドもとても良い土壌でした。

甚だ残念だったのは、トニー・ウイリアムスのライフ・タイムの3代目ギターリストとして(初代:マクラフリン、二代目:テツド・ダンパー)当時サンタナのベーシストであったダグ・ローチとトリオでトニーのハーレムにあったロフトで丸一月間もリハーサルをしたのですがある日突然トニーがヨーロツパに渡ったきりになって一年以上もニューヨークに戻らなくなってしまった事がありました。一応、ツアー・スケジュールの話などもすでに出ていたので私とベースのダグは暫くの間途方にくれていました。せっかくリハーサルしたバンドが人前で演奏する機会が持てなかったのは今でも残念です。せめてテープでも録れていれば記念くらいにはなったのですが..そのトニーも彼の死去の直前のパーフォーマンスをマンハツタンの私の家のすぐ側にあるバードランドで2年程前に見る事が出来ました。とても元気そうでまさかそんなにすぐに行ってしまうとは信じられませんでした。やはり一諸に演奏したり世話になったりした歴史的なジャズ・ミュージシャン達が次々と他界して行く時代を過ごしているなという実感があります。逆に言えばやはりジャズはもうクラシック音楽になってしまったのかもしれません。そこで私の様な中途半端な世代でしかも日本生まれのジャズ・ミュージシャンの今後の道を見出すのが私の現在の課題かもしれません。 若いジャズ奏者は沢山いますがやはり歴史的な巨匠達との演奏経験無しでレコード、採譜、練習とか音楽学校だけを基に果たして真のジャズが演奏出来るかどうかはかなり疑問です。ジャズの原点は会話とフィーリングですのでこの会話のし方とフィーリングをハーモニー、リズム、フレーズ等を通してまず学ばなければならないからです、でもそれを学ぶ為にはその方法をマスターした人達と共演して会得するしか術がないからです。

SJ
ご自身の作品の中で特に印象に残っているものはありますか。

RYO
それぞれの作品にはそれなりのストーリーが付随していますので中々難しい質問です。 アメリカで日本人初の米メージャー・レーベル・リリースのRCAからの"ジュース"(1976年録音)は90年代にリミクサーやヒツプ・ホツプ制作用のサンプリング・ソースとしての多大な注目を受けてしまいこの作品の中の数曲がメージャー・ポツプ・アーチスト達の作品にかなり多用される事になり全世界で現在総売り上げ500万枚以上のポツプ・レコードやダンス・リミツクスに使用されています。Puff Daddy,Kieth Murray、Sting等があります。このアルバムには当時マイルス・デイヴィスのバンドのサツクス奏者サム・モリソン、サンタナのキーボーデイスト トム・コスタ等が参加しています。1982年に日本のフィリツプスに録音した"RYO"(アランフェス協奏曲)も意味深い作品です。1973年に渡米した際に一本のクラシックのテープ を持参してきていました。それはジョン・ウイリアムスの演奏したアランフエス協奏曲でいつかこの曲を自身で演奏して録音してみたいと思っていた念願がかなった作品です。1979年に日本のソニー・オープン・スカイ に録音したミラー・オヴ・マイ・マインドの中の"トウリンケツ エンド シングス"という曲が何故か全世界のDJの間でクラシック・フュージョン・ダンス・ヒツトとして認識されています(ハーヴィー・メイソン、マイケル・ブレツカー等と収録)。昨年もロンドンの"ジャズ・キャフェ"でイギリスの新たなダンス・コンピレーションCDの中に含まれたのでその為の発売公演をして、つい最近もフィンランドのDJが私のジャズ・バレーの公演をエストニア迄見に来てこの曲の話をしていました。プリズムの中の"Nogi"と言う曲は赤坂と六本木の間にある野岐坂(野木坂?)を歩いている時に思い付いた曲です。ソニー・オープン・スカイ に1980年に六本木のピツト・インで録音した"ゴールデン・ドラゴン・ライヴ"の中の"アガナ"は思い出深い私なりのマジツク・パーフォーマンスです。ベースのリンカーン・ゴーインズとドラムのバデイー・ウイィアムスと私自身が一体化したパワーが出たと思います。1991年に日本のワン・ヴォイスで発売した"ヒア・ゼア・アンド・エヴェリウェア"は私の最初のアコースティック・ソロ・ギター・パーフォーマンスで私の違った面が出せたと思います。その実、家ではこんな感じでギターをいじっている訳でそれをその侭DATに直接録音しただけですが、かなり好評で売れてくれました。

SJ
近年のジャズ、フュージョンシーンをどのように見てらっしゃいますか。また特に最近のニューヨーク音楽シーンでお感じのことはありますか。

RYO
私自身も含めて1980年代後半から1990年代はコンピュータを多用した打ち込みやエレクトリツク・サウンドの追求をしていましたが、現在はやはりもっとヒューマンなサウンドが演奏者、聴衆の両方から求められている感がいたします。まあ、先ほども述べた様に私等かなり中途半端な条件にいるので如何に新しいサウンドとジャズのイデイオムを共存させて行く方向を見出して行くかが挑戦ともいえるかもしれません。ヒップ・ホップなども最近はかなりメロデイツクな要素も混合せざるを得なくなっていているのでその辺に突波口が見出せるかもしれません。今更、1970年代のフュージョンをやり直すのは全く無意味な行為に思えます。出来る限り世界中の音楽の方法論とサウンドを勉強、研究してそれをジャズの基本的なイデイオムと結合させ、且つ最先端のビートと交ぜる...といった感じです。早い話が新しい料理のレソピーや新しいファツションを作り出すのと同じ様な行為かもしれません。

SJ
最近注目されているミュージシャンがいましたら挙げて下さい。

RYO
一諸に演奏するミュージシャンはプロの人達ばかりで、新しいミュージシャンの注目度など殆ど話題に上らないので、若い世代の私のガール・フレンドや娘達や私の友人の息子達が好んで聴く音楽を出来る限り一諸に聴く様にしていますが面白くても一々記録していないので誰が誰だか全ては知りません。でも、面白い物は何回か聞いて自分の創作のアイデイアにさせてもらっています。レーベルもやっているので色々なアーチストからサンプルが送られてきますが中々昔の私の好んで聞いていたジャズやフュージョンの巨匠達の演奏と比べると今一物足りない感じです。どちらかと言うとワールド・ミュージツク系の新しい作品の方が私の耳には新鮮に聞こえます。

SJ
音楽以外で最近のニューヨークでお感じになることはありますか。

RYO
これも、先ほど述べた様に最近はかなりニューヨークに飽きてきて出来る限り他の場所で過ごす様になって来ています。まず、とてつもなく人間が多すぎるのとコマーシャリズムの氾濫で70年代に感じた様なヒップな感覚が失われてしまった感がいたします。でも、マーケット・サイズとしてはやはり膨大な物なのでないがしろにはできません。それと長年の間に築いた仕事仲間も沢山います。したがって、今でも本拠地とはしていますが、なにか火花が散るまではエストニアの様な所で準備している方が創作活動の能率が上がる感がいたします。

SJ
現在お使いのメインギター、ヤマハ川崎燎モデルの特徴や気に入っている点などを 教えて下さい。

RYO
私はギター・コレクターではないので、どちらかと言うとそこにある物を使うという単純な発想です。料理をするのにどれほどの特別な鍋が必要か? と言うのと同じ様な事です。音程、バランス、アクションが良ければ何でも構わない感じです。アンプも同様です。楽器が音楽を奏でるのではなく人が奏でるからです。ピアニスト等演奏毎に違うピアノを使わなければなりません。このギターは一応贈呈されたものなのでそれなりの愛着はありますが厳密に言えばかなりの調整が必要です。でもそれでもも私は横着なのか知りませんが弦が切れた時のみ張り替える様な感じで20年間使用してきました。現在エレキはこれしか持っていないのでギグ・バッグに入れて世界中背中にしょって放浪している感です。

SJ
ここ数年間のご自身の音楽活動で特に力を入れられてきたことはありますか。また現在の主な活動と当面の予定、アルバム制作の予定などの近況など教えてください。

RYO
ひょんな事から1999年後半からエストニアのミュージシャンとの親交が芽生えて、そこから最新のギター・トリオ・アルバム "レヴァル"の制作、発売等(今年、2001年6月末米国発売)、エストニア・ナショナル・オペラ・ハウスの意欲的なジャズ・バレー・プロジェクトの作曲家とギターリストに迎え入れられてその活動と共にフィンランド、ノルウェー、ラトヴィア、リスアニア等での活動チャンスが増えてきていて、エストニアの首都タリンにも住処を設けて活動してきています。六月末からはニューヨークに戻って私のレーベルからの最新3作の米国での発売に専年して7月にはフィンランドのポリ・ジャズ・フェステイヴァルに参加してからニューヨークに戻り、再び8月中半からエストニアのジャズ・バレーの公演のために戻り、日本のワン・ボイス・レーベルへのアコーステイツク・ソロ・アルバムの新作録音に取り掛かります。
録音はニューヨークでかタリンでかは未定です。9月―12月には再びエストニアでのバレー公演とフィンランドでのジャズ・フェステイヴァルへの出演予定があります。
同時に私の大学時代の専門学"量子力学"の再勉強も行っています。インター・ネツトの発展で資料が得やすくなったし何処ででも研究出来るのでかなりの時間を費やしています。私のサイトには私の時間と時空旅行に関する昨年書いたエツセイ掲げられています。200ページに及ぶ私のウェヴ・サイトのUpdateもほぼ毎日行っています。上の娘は24でキャリフォルニアの大学院で女優を修業中で下の娘は4歳でニューヨークの保育園を丁度出た所です。

SJ
日本で仕事をされることもあるでしょうか。また今後そのような予定はあります か。

RYO
日本には住居が無いので、バンド・メンバーも含めて長い間訪問するとかなり高価なプロジェクトになるのでそこを金銭的にバランスさせるのが問題点です。できれば、最低2年に一回位は小さなクラブ等を通して全国を回りたいと常々思っているのですがなかなか実現しきれずにいます。

SJ
最後にファンへメッセージがあればお願いします。

RYO
一人でも多くの方々に私の発表した作品や演奏・作曲活動を聞いたり見たりして頂いて皆さん自身の感覚で楽しんだり、評価して頂ければ、私としてはそれだけで充分です。

私のレーベルや活動は常に私のサイト http://www.satellitesrecords.com にアップ・デートしてありますし、私自身の日本語のバイオはhttp://www.satellitesrecords.com/artists/kawasakijp.html にありますのでこのインタヴューの補足としてご利用下さい。

それでは、近いうちにお会い出来る事を楽しみにしています。 (2001年6月7日、タリン、エストニアにて、)

SJ
どうもありがとうございました。




以前、アルバムのライナーノーツ等で彼本人の文章に触れたことがありましたが、非常に知性ある大人の文章を書かれる人だと思っていました。今回のインタヴューにおいても、誠実な人柄が偲ばれる中身の濃い返答をいただきました。感謝、感謝です。

私など全く知らなかった、彼の黎明期の逸話やジャズ巨匠との接点等の話題は、彼の軌跡を知る上で大変貴重な資料ともなるのではないでしょうか。

またファンにとって嬉しいのは、近いうちにいよいよニューアルバムの制作にとりかかるというニュースです。それも今回、アコースティックソロ作ということで、「Here There & Everywhere」「My Reverie」に続く、シリーズ3弾目ということになります。早ければ年内にはリリースでしょうか。楽しみに待ってます。

川崎燎さんといえば70年代後半から80年代前半にかけては、増尾好秋、渡辺香津美両氏に加え「日本人“若手”ジャズギターリスト三羽烏」などと称されたりしましたが、前ニ者に比べやや玄人好みのする雰囲気をもっていました。今でもその雰囲気は残っているものの、かといって彼のやる音楽が非常に難解でとっつきにくいものかといえば、決してそのようなことはなく、特に近年の作品はどれも(彼の云うように)ヒューマンなぬくもり をもった、誰か聴いても親しまれる内容のものばかりです。今回のインタヴューを機に是非多くのリスナーに彼の音楽を体感していただくことができれば、ファンとして嬉しい限りです。(セリエJ)





セリエJ おすすめの1枚!

「Sweet Life」ワン・ヴォイス(VACV-3004)96/98(再発盤)

〜あくまでcoolに、あくまでsmoothに!
 Big Cityの喧騒を一歩離れ、彼のサウンドに身を委ねれば、そこはすでにオアシスの入口!〜

・・・私が川崎燎さんを聴くきっかけとなった1枚で、何よりギターの音に艶があり、リラックスした中にもさりげなくテンションを織りまぜた、バランスの見事なプレイを聴くことが出来ます。とりわけ1曲目のタイトル曲から2曲目「Chapel Of Love」への流れは 絶妙で、アルバム全体のカラーを決定づけています。
日本人にありがちな“湿っぽさ”を排し、どこかクールでドライな味わいも特徴のひとつ。さすがニューヨーク仕込み、というところですか?!



Interview by Serie-J
Photos courtesy from satellitesrecords.com
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